2008-07-01
「いま、釈迦のことば」 瀬戸内寂聴
![]() | いま、釈迦のことば (2008/04/04) 瀬戸内 寂聴 商品詳細を見る |
ごく一般の人々にとって、この方ほど有名な尼さまは、他に見当たらないほどの人物であろう。
著作業を経て出家されてからも数々の著書があり、京都に「寂庵」を開き、仏教者として活躍されている。また、2006年に文化勲章を受章されており、天台寺名誉住職、比叡山禅光坊住職の要職に就かれてもいる。
そんな寂聴尼が2008年4月の終わりに出版されたのが本書である。
ともすれば難しい内容になりがちな仏教解説書であるが、ダンマパダ(法句経)を中心に寂聴尼特有の心に染み込むような自然で平易な文体が魅力的である。
叡山に僧籍を置く寂聴尼が、あえてこの時世に原始仏教経典であるダンマパダを題材にとり肯定して、この本を著作された“意味合い”は大きいのではないかと思う。
非常に勇気ある行動でもあるし、叡山の寛容な包容力のなせる業なのか・・・。
ある意味、日本大乗や天台の教義と相反する部分もたぶんにあるのではないかと考える。
凡夫中の凡夫である私のゲスな勘ぐりなど、どうでもいいことである。
しかしながら、日本の大乗仏教界が当然当たり前と信じていた教えが揺らぐようになった明治以降のパーリ語・サンスクリット語原始仏典からの直接の日本語訳とその後の研究によって、私達日本人が信じている仏教とはなんなのか?という自己矛盾が常に傍らに存在してきた。
そこへきて、「いま、釈迦のことば」であるのだから感慨深い。
とうとう、この件にかんして、日本仏教の祖である天台のお山から事実上の解禁が暗に示されていると考えるのは早計であろうか?
時代の要請に敏感であり、積極的に俗人に法を説いてきた寂聴尼の行動だからこそ説得力が増すのであろう。本書を通じて是非とも沢山の方に原始仏教経典のブッダのもともとの教えに触れていただきたいと願う。
中泰
2008-06-27
「夢をかなえるゾウ」にみる世相
![]() | 夢をかなえるゾウ (2007/08/11) 水野敬也 商品詳細を見る |
100万部以上を売り上げ、すでにTV化が決定している話題の本である。
2時間程度で読めるような平易な文体であるが内容はそれなりに深い。
非常に綿密な市場調査やマーケティングによりヒットするために練りに練られた企画本であると察する。
話しとしては滅茶苦茶である。印度のヒンズー教の神様であるガネーシャが極めて仏教的な発言をしていたり、お釈迦様が登場するのだが、ガネーシャ曰く、「最近、釈迦と飲みにいってないなぁ」などと発言する。お釈迦様は戒律の関係上、決して飲酒しないと思うのだが・・・。
細かい粗探しはこのへんにして本題にはいりたい。
要は次から次へと登場するHow to本の一種である。どうしたら成功者になれるのか?ガネーシャというヘンテコな神様がごく普通のサラリーマンの前に現れて“成功者への道”を屁理屈いっぱいに無理難題を言いながら指南していく。その中に、ささやかな分りやすいエピソードを盛り込みながらブラックジョークたっぷりに展開していく。
第一に、生活習慣を変えること、つまりものの考え方を変えてどのように実践に移していくか?すべては心の中の問題で、感謝の気持ちを忘れない事。
第二に、すべてのものは繋がっている。どのような結果にも原因があるということ。
第三に、環境が大事であるということ。等々・・・。
すでに多くの“成功本”に書き尽くされているネタである。それに特異なキャラクターを登場させ、多くの迷い人を導くがごとき、お釈迦様の教えをちりばめている、という程度である。
では、この本がどううして突出して売り上げを伸ばしたのであろうか?宗教と聞いただけで毛嫌いする人々が抵抗無くこの本に惹かれている。
反対に、現在の日本の伝統仏教界は、世間のニーズに疎いというか、汲み取った活動が十分に出来ていないのではないでしょうか?葬式仏教の暗いイメージと坊主丸儲け的発想が暗雲として居座っている限り、人々が仏教を求めているのに近づいていけない、そんな状況がこれからも続いていくのだろうなぁと思うと残念でならない。
この本に習うところは多分にあるのではなかろうか?・・・中泰
2008-06-26
日本の仏教難民 ??? 4
あるお坊さんを囲む宗派を超えた集まりに参加してみた。
そこには、多様な日本大乗のお坊さん方も参加されており、とてもフランクな雰囲気のなかで一般参加者からタブーなき?質問や相談がされています。
この会には、宗旨宗派も関係なく、さらにはお坊さんも上座部(南伝)も大乗(北伝)も入り混じり、中には本職の神道の宮司さんもいらっしゃり、私にとってこの光景は、新鮮でもあり非常に衝撃的でもありました。
私のような考えの方がこんなにも沢山いらっしゃるんだと心強くも感じました。
非常にユニークなそのお坊さんは、私のワダカマリを少しづつほぐしてくれた。
私の発心の経緯から、パーリ語やサンスクリット語原典から日本語に直に訳されたブッタの教えそのものに惹かれていること、そして日本の葬式とお墓を取り巻く“葬式仏教”ビジネスに関する疑問を率直にぶつけてみた。
そのお坊さんは、「貴方は、ごく普通の感覚の持ち主だと思いますよ、ただ半分正しくて半分疑問が残りますな」と穏やかに答えると、分りやすい言葉を選んで話しをしてくれた。
以下、お坊様のお話しの要約です。
あなたが、発心するきっかけとなったのが、パーリ語やサンスクリット語原典から日本語に直に訳されたブッタの教えであったことは、非常に幸運なことです、幸せなことですよ。
貴方が明治以前の日本人であれば知る由もなかったことが、生死をかけた冒険のうえでしかたどりつけなかった教えに、数々の書籍やインターネットによって直に触れる事ができるのですから。
私はね、矛盾しているように思われるかもしれませんが、頭とマユを剃りこんな格好(衣)をしていますが、宗教が大嫌いなんです。
2525年前に実在した人間ブッダとその教えに帰依しています。
宗教と捉えずに、2525年前に印度に実在したブッタの教えは、現世で心穏やかに地球上のすべての生きとし生けるものが幸せであるための“実践哲学”であると考えています。ですから、勉強も必要ですが、それだけではなく身をもってブッタの言っている事はこうゆうことだったのかと、できることから実践していくことが大切なことなのです。
難しい教学は立派な先生方の研究書をお読みになればそれで事足りるのではないでしょうか?
私のような凡夫の大多数の人間は、ブッタの教えに触れて20年やそこら修行したところで悟れるわけでもありません。227の戒律を守り、ブッタの教えにご縁をいただいた私のような人間ができることは、もともとのブッタの教えを知って欲しい。ただ、それだけなのです。このような集まりもその一環と考えています。
それでも、人生の節目で決断を迫られる時、ブッダならどのような考えの下にどのように行動するであろうか?それが私の行動規範となっています。
日本で坊主や仏教徒であること=すなわちブッタの説かれた道を正しく進んでいる者であること、では無いと言えるのは事実だと思います。しかし、だからといってオリジナリティーあふれる日本の大乗が間違っているとかテーラワーダ(上座部)が正統だとかということにはならないと思います。
とにかくね、“仏教オタク”はいらないんですよ!
入り口は何処でもいいんだと思います。貴方が信じる信仰のままでいいから、紆余曲折を経て伝播し、進化発展していく前の、この世に実在した人間ブッタの説かれた実践哲学を知って欲しいんです。
貴方は、日本のお寺とお坊さんの現状から、日本の大乗に懐疑的になっておられるようだが、坊主とて食っていかなければならない。
スリランカやタイやミャンマーなどのテーラワーダの国々では坊主は比丘(乞食)なんです。托鉢によって、つまり坊主側が一般の方々から慈悲を施されて命をつないでいます。それは、喜捨をして得を積むという考え方が国土の隅々まで浸透して脈々と受け継がれているから成り立つことです。
日本の大乗では、寺や坊主が一般の方々や故人とそのご遺族にご利益を与えて布施を頂き生活をしています。その際たるものが檀家制度ではないでしょうか。
そう考えるならば、お寺の集金システムと大乗の教えとは切り離されて考えてみたらいかがでしょうか?そうしないとポイントがずれてしまいます。
日本の大乗が、確かに人間ブッダが生きている間に説いた教えとは、かけ離れている部分もあるでしょう。しかし、この日本という国土の上で1500年以上かけて熟成されてきた大乗の教えの中に素晴らしいものも沢山あるのです。戒律に関してもこの立場に立ってみたらいかがですか?
私はこのお話しを聞いてから、仏教が益々好きになりました。
この先、仏教徒として歩んで行く上で私の大きな指針を頂いたように思います。
おわり
そこには、多様な日本大乗のお坊さん方も参加されており、とてもフランクな雰囲気のなかで一般参加者からタブーなき?質問や相談がされています。
この会には、宗旨宗派も関係なく、さらにはお坊さんも上座部(南伝)も大乗(北伝)も入り混じり、中には本職の神道の宮司さんもいらっしゃり、私にとってこの光景は、新鮮でもあり非常に衝撃的でもありました。
私のような考えの方がこんなにも沢山いらっしゃるんだと心強くも感じました。
非常にユニークなそのお坊さんは、私のワダカマリを少しづつほぐしてくれた。
私の発心の経緯から、パーリ語やサンスクリット語原典から日本語に直に訳されたブッタの教えそのものに惹かれていること、そして日本の葬式とお墓を取り巻く“葬式仏教”ビジネスに関する疑問を率直にぶつけてみた。
そのお坊さんは、「貴方は、ごく普通の感覚の持ち主だと思いますよ、ただ半分正しくて半分疑問が残りますな」と穏やかに答えると、分りやすい言葉を選んで話しをしてくれた。
以下、お坊様のお話しの要約です。
あなたが、発心するきっかけとなったのが、パーリ語やサンスクリット語原典から日本語に直に訳されたブッタの教えであったことは、非常に幸運なことです、幸せなことですよ。
貴方が明治以前の日本人であれば知る由もなかったことが、生死をかけた冒険のうえでしかたどりつけなかった教えに、数々の書籍やインターネットによって直に触れる事ができるのですから。
私はね、矛盾しているように思われるかもしれませんが、頭とマユを剃りこんな格好(衣)をしていますが、宗教が大嫌いなんです。
2525年前に実在した人間ブッダとその教えに帰依しています。
宗教と捉えずに、2525年前に印度に実在したブッタの教えは、現世で心穏やかに地球上のすべての生きとし生けるものが幸せであるための“実践哲学”であると考えています。ですから、勉強も必要ですが、それだけではなく身をもってブッタの言っている事はこうゆうことだったのかと、できることから実践していくことが大切なことなのです。
難しい教学は立派な先生方の研究書をお読みになればそれで事足りるのではないでしょうか?
私のような凡夫の大多数の人間は、ブッタの教えに触れて20年やそこら修行したところで悟れるわけでもありません。227の戒律を守り、ブッタの教えにご縁をいただいた私のような人間ができることは、もともとのブッタの教えを知って欲しい。ただ、それだけなのです。このような集まりもその一環と考えています。
それでも、人生の節目で決断を迫られる時、ブッダならどのような考えの下にどのように行動するであろうか?それが私の行動規範となっています。
日本で坊主や仏教徒であること=すなわちブッタの説かれた道を正しく進んでいる者であること、では無いと言えるのは事実だと思います。しかし、だからといってオリジナリティーあふれる日本の大乗が間違っているとかテーラワーダ(上座部)が正統だとかということにはならないと思います。
とにかくね、“仏教オタク”はいらないんですよ!
入り口は何処でもいいんだと思います。貴方が信じる信仰のままでいいから、紆余曲折を経て伝播し、進化発展していく前の、この世に実在した人間ブッタの説かれた実践哲学を知って欲しいんです。
貴方は、日本のお寺とお坊さんの現状から、日本の大乗に懐疑的になっておられるようだが、坊主とて食っていかなければならない。
スリランカやタイやミャンマーなどのテーラワーダの国々では坊主は比丘(乞食)なんです。托鉢によって、つまり坊主側が一般の方々から慈悲を施されて命をつないでいます。それは、喜捨をして得を積むという考え方が国土の隅々まで浸透して脈々と受け継がれているから成り立つことです。
日本の大乗では、寺や坊主が一般の方々や故人とそのご遺族にご利益を与えて布施を頂き生活をしています。その際たるものが檀家制度ではないでしょうか。
そう考えるならば、お寺の集金システムと大乗の教えとは切り離されて考えてみたらいかがでしょうか?そうしないとポイントがずれてしまいます。
日本の大乗が、確かに人間ブッダが生きている間に説いた教えとは、かけ離れている部分もあるでしょう。しかし、この日本という国土の上で1500年以上かけて熟成されてきた大乗の教えの中に素晴らしいものも沢山あるのです。戒律に関してもこの立場に立ってみたらいかがですか?
私はこのお話しを聞いてから、仏教が益々好きになりました。
この先、仏教徒として歩んで行く上で私の大きな指針を頂いたように思います。
おわり
2008-06-12
日本の仏教難民 ??? 3
日本の仏教難民 ??? 1・2を読んでビックリするほどのレスポンスの速さで、多数のコメントやメールを頂いた。が、しかしそのすべての方のコメントが管理者だけが読む事を希望されており、コメントでなくメールという形で頂いた方々も同じ心情なのであろう。
自分の意見であるコメントを公表して人の意見を聞けるいいチャンスだと思うのですが・・・。
お坊さんや関係者からのご意見も是非ともお寄せいただきたい。
それだけ、微妙な問題に足を突っ込んでしまった、ということであろうか?
今や仏教学者から一般の人々まで公然の事実ですよね。もちろん分っていても立場上言えない方もおられるでしょう。
さて、本題に入ります。
実家に住んでいるが新宅の核家族で神棚も仏壇もない、そんな宗教とは縁遠い人間が、あるいは宗教が大嫌いな人間が、ある日ふとしたことから発心したとします。言い換えればブッダの教えに触れて心の扉が開いたとしましょう。
貴方ならどうしますか?
いきなり仕事を辞めて仏教大学に行くわけにもいかず、ましてやすべてを捨てて出家するわけにもいかない。と考えると近所のお寺にでもいって和尚に聴いてみるか、となるのだが、世間での一般的なお寺の坊主の印象は、宗教法人をいいことに“坊主まる儲け”でやりたい放題というイメージがつきまとう。
ここまで書いたのは、お察しのとうりで私がガラにもなく発心した頃の話しである。この頃の私はブッダとは誰で、どんな事をいっているのか?ということが無性に知りたくて知りたくて渇望していた。そして、お坊さんとお寺と葬式と取り巻き業者を包括する日本の仏教の巧妙な集金システムに憤りと偏見をもっていた。
というのも、立て続けにこんな思いをしたからである。
時間があるときには夕方にウォーキングをしていた。丁度その中間地点にお寺があり、清々しい気持ちで境内を通って折り返して自宅に戻るのが丁度いいコースであった。一週間に一度ぐらいは賽銭をいれて手を合わせることもあった。何度もお寺の奥様と思われる方と境内でお会いし、笑顔で会釈をしてくれるようになった。そんなある日、その方から「檀家様ですか?」と声をかけられたので、違うのだが仏教に興味があるので勉強させてもらえませんかとの私の声をさえぎり、「檀家様以外の境内への立ち入りはご遠慮していただいております」と手のひらを返したようにぶっきらぼうに言われた。
また、こんな事もあった。
ネットで調べてみると、自宅から車でわりと近いお寺で毎月法話会があるという。
電話で問い合わせてみると、檀家でなくてもどなた様もお越し下さい、と言われたので仕事を早めに切り上げて参加してみた。だいぶ早く着いてしまい、和尚が対応してくれたので思い切って自分の気持ちを話してみた。
「最近、仏教に興味をもって印度で発祥した仏教とかブッダそのものとか、もともとのブッダの教えとか、そおいうところから勉強を始めてみたい」と正直に話してみた。
すると、面倒くさそうな顔つきになり驚くべき答えが返ってきた。
和尚曰く、「うちではそおいう話はしませんよ、うちは○○宗ですから開祖○○の説いた教義に関する勉強会になりますな、だいたいそんなややこしい事を知っても何の役にも立ちません、ただ○○を唱えればいいんです、簡単でしょ、誰でも極楽浄土にいけますよ、お墓は後からでいいので檀家になられたらどうですか?」と切り捨てられた。
その後の法話会も聞いていたが、如何に戒名が大事であるかとか、ご先祖様の祭り方とか、現在宗門の大学に通っている息子の自慢話とかに終始していて、白々しくて聞いていられないので途中で帰ってきたのであった。
つまり、法話会とは名ばかりで、ブッダの教えはどこにも欠片もなく、お寺の集金システムの“すり込み”に終始しているのである。
では、私のような人間はどうしたらよいのであろうか?
ご縁が無いと諦めるか、ジッとご縁が廻ってくるのを待てばいいのであろうか?
しかるに、私のような人間が行き着く先は、新興の宗教ということになりやすい。
しかし、私はそうはならない。なぜなら矛盾しているようであるが、私は宗教が嫌いなのである。
そんな人間がたどり着く先が、“書斎仏教”である。
しかし、これはこれで問題がある。
ブッダの教えを知り吸収していくのは楽しいのだが、まるで仏教学のような視点で仏教を見るようになってしまい、いっこうに信仰にならないのである。
数々の宗教の中からやっと仏教と決めたのに、宗旨宗派を選ぶのが至難の業である。
あるお寺の息子(彼は普通の公務員)にそっと相談してみると、うちの宗派は何かと金がかかるから、○○宗は割と良心的らしいよ、などと訳の分らぬ判断基準をもとに○○宗を推薦してくれた。坊主の身内からしてこうなのだから、いよいよ悩ましい現状である。
ところが数ヶ月して、そんな私の陳腐な考えを打ち砕き、道を示してくれるお坊さんが現れることとなった。まさに不思議なご縁としか言いようがない。
つづく
自分の意見であるコメントを公表して人の意見を聞けるいいチャンスだと思うのですが・・・。
お坊さんや関係者からのご意見も是非ともお寄せいただきたい。
それだけ、微妙な問題に足を突っ込んでしまった、ということであろうか?
今や仏教学者から一般の人々まで公然の事実ですよね。もちろん分っていても立場上言えない方もおられるでしょう。
さて、本題に入ります。
実家に住んでいるが新宅の核家族で神棚も仏壇もない、そんな宗教とは縁遠い人間が、あるいは宗教が大嫌いな人間が、ある日ふとしたことから発心したとします。言い換えればブッダの教えに触れて心の扉が開いたとしましょう。
貴方ならどうしますか?
いきなり仕事を辞めて仏教大学に行くわけにもいかず、ましてやすべてを捨てて出家するわけにもいかない。と考えると近所のお寺にでもいって和尚に聴いてみるか、となるのだが、世間での一般的なお寺の坊主の印象は、宗教法人をいいことに“坊主まる儲け”でやりたい放題というイメージがつきまとう。
ここまで書いたのは、お察しのとうりで私がガラにもなく発心した頃の話しである。この頃の私はブッダとは誰で、どんな事をいっているのか?ということが無性に知りたくて知りたくて渇望していた。そして、お坊さんとお寺と葬式と取り巻き業者を包括する日本の仏教の巧妙な集金システムに憤りと偏見をもっていた。
というのも、立て続けにこんな思いをしたからである。
時間があるときには夕方にウォーキングをしていた。丁度その中間地点にお寺があり、清々しい気持ちで境内を通って折り返して自宅に戻るのが丁度いいコースであった。一週間に一度ぐらいは賽銭をいれて手を合わせることもあった。何度もお寺の奥様と思われる方と境内でお会いし、笑顔で会釈をしてくれるようになった。そんなある日、その方から「檀家様ですか?」と声をかけられたので、違うのだが仏教に興味があるので勉強させてもらえませんかとの私の声をさえぎり、「檀家様以外の境内への立ち入りはご遠慮していただいております」と手のひらを返したようにぶっきらぼうに言われた。
また、こんな事もあった。
ネットで調べてみると、自宅から車でわりと近いお寺で毎月法話会があるという。
電話で問い合わせてみると、檀家でなくてもどなた様もお越し下さい、と言われたので仕事を早めに切り上げて参加してみた。だいぶ早く着いてしまい、和尚が対応してくれたので思い切って自分の気持ちを話してみた。
「最近、仏教に興味をもって印度で発祥した仏教とかブッダそのものとか、もともとのブッダの教えとか、そおいうところから勉強を始めてみたい」と正直に話してみた。
すると、面倒くさそうな顔つきになり驚くべき答えが返ってきた。
和尚曰く、「うちではそおいう話はしませんよ、うちは○○宗ですから開祖○○の説いた教義に関する勉強会になりますな、だいたいそんなややこしい事を知っても何の役にも立ちません、ただ○○を唱えればいいんです、簡単でしょ、誰でも極楽浄土にいけますよ、お墓は後からでいいので檀家になられたらどうですか?」と切り捨てられた。
その後の法話会も聞いていたが、如何に戒名が大事であるかとか、ご先祖様の祭り方とか、現在宗門の大学に通っている息子の自慢話とかに終始していて、白々しくて聞いていられないので途中で帰ってきたのであった。
つまり、法話会とは名ばかりで、ブッダの教えはどこにも欠片もなく、お寺の集金システムの“すり込み”に終始しているのである。
では、私のような人間はどうしたらよいのであろうか?
ご縁が無いと諦めるか、ジッとご縁が廻ってくるのを待てばいいのであろうか?
しかるに、私のような人間が行き着く先は、新興の宗教ということになりやすい。
しかし、私はそうはならない。なぜなら矛盾しているようであるが、私は宗教が嫌いなのである。
そんな人間がたどり着く先が、“書斎仏教”である。
しかし、これはこれで問題がある。
ブッダの教えを知り吸収していくのは楽しいのだが、まるで仏教学のような視点で仏教を見るようになってしまい、いっこうに信仰にならないのである。
数々の宗教の中からやっと仏教と決めたのに、宗旨宗派を選ぶのが至難の業である。
あるお寺の息子(彼は普通の公務員)にそっと相談してみると、うちの宗派は何かと金がかかるから、○○宗は割と良心的らしいよ、などと訳の分らぬ判断基準をもとに○○宗を推薦してくれた。坊主の身内からしてこうなのだから、いよいよ悩ましい現状である。
ところが数ヶ月して、そんな私の陳腐な考えを打ち砕き、道を示してくれるお坊さんが現れることとなった。まさに不思議なご縁としか言いようがない。
つづく
2008-06-11
日本の仏教難民 ??? 2
最近は、「友人葬・家族葬」なる僧侶を呼ばずに、遺族・親族・友人など、故人と親しい人のみによって執り行う葬儀・告別式が都心部を中心に一般化し始めている。
檀家でお墓がある人も、郷里に跡取りがいないので都心郊外の“霊園”にお墓を移すことが盛んに行われている。
ある宗派で、実家のある郷里に跡継ぎや墓守がいなくなるとどうしても足が遠のく、というのでお坊さんにいわゆる“魂抜き”をしてもらい(もちろん有料)、都心の自分の住んでいる便のいい場所の同じ宗派のお寺の檀家になり、そこにお墓を移すということになった。しかしその宗派では、伝統的に農村部で信者が多かった為、都心やその郊外には寺も墓地も絶対数が足りない。そこで本部号令の元、都心郊外に墓地を建設している。
新たな墓地建設のいい土地がみつかっても、都心から高速を使っても2時間以上かかる所の場合には、客寄せパンダ、おっと失礼、信者を寄せる為の巨大モニュメントを建造したりしている。
かくゆう私も吸い寄せられるように馬鹿馬鹿しいと思いながらも先日拝観してきた。
これは、以外にも好評のようで、他の仏教国からもそのモニュメントを観るために観光バスで日参しているほどである。
その仏像型モニュメントにはエレベーターがついており、最上階まで上れば仏像の目のところから景色が一望できるようになっている。
その巨大さには度肝を抜かれたが、日本人や韓国人、中国人は次々と上っていくのにテーラワーダ(上座部)仏教の国から来た人々は、外から拝むだけで仏像の中に入って上ろうとはしない。その意味を日本人の僧侶や信徒は分っているのだろうか?と気恥ずかしい気分がした。
通夜や葬式はやる。しかし、お坊さんは呼ばずにヒーリングの音楽などでお経はない。したがって線香やお焼香というものもなく、一輪の花を参列者が献花台にそなえる。
あるいは、お焼香もお経もあるが、お経はCDなどということもある。
極めつけは、故人の遺言であるからと通夜や葬式は行わず、慢性的な火葬場不足の為、遺体をドライアイスなどで保存して数日待って焼き場に持っていって火葬にするだけ。
墓はもちろん位牌も仏壇も棺おけも骨壷もいらない、ただ焼いて、郷里の川にそっと流してくれというシンプルなものまで登場している。
いわゆる新宅で核家族の家庭には、神棚も仏壇も無い。
したがって宗教心も信仰心もない、というわけでなく、特定の宗旨宗派の檀家ではない。つまり、どれがいいかと言われれば仏教になるのだろうが、知り合いに坊さんもいないし、何だか金がたいそうかかかると檀家である友人から恨み節ともとれる愚痴をきいていると、檀家になり墓なぞ残したら子どもに迷惑をかけることになると考えてしまう。
また、笑い話のような切実な話しもチラホラ聞く。
自分の親の葬式は兄弟5人で出したから負担も1/5で済んだが、一人っ子の一人娘の我が家なんかは、婿に面倒見てもらうことになる。まだ婿ならいいが、娘が嫁にいったら他人に経済的負担を強いる事になる。かといって、実家の墓に長男で跡をとっている兄貴と一緒に入れてもらうわけにもいかない。
そこで、日本人は気付いてしまったのですね、そう“霊園”です。
友人葬・家族葬+宗教宗派を問わない霊園=安価で自由な葬儀と自由な墓石
これで、坊さんへのキックバック(コミッション)も葬儀の費用や墓石に上乗せされなくて済むじゃないかと・・・。
事情は、それぞれであろうが、先日の読売新聞の記事を下記に引用したい。
読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。
ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。
多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。
私はこの記事にある種のショックと警戒感、そして落胆を覚えた。
■全国の仏教寺院数 約7万7千か寺
■僧侶の数 約30万人
■信者数 約6000万人
ということになっている。これは、宗教法人を取得している団体だけで、仏教系施設や信者はさらに2割増し程度になると思われる。
すでに飽和状態と言われるコンビニエンスストアでさえ4万店舗前後である。
約7万7千か寺のハコモノと約30万人の僧侶と約6000万人の信者をようしている日本の大乗仏教界が1500年以上の時を経て、先祖崇拝と自然崇拝と神秘主義の無宗教国民を創り出してしまっているのである。
これでは、日本の国民が新宗教や新新宗教などの新興の宗教やカルトに流れてしまうのも致し方ないのではなかろうか!
政教分離の原則は支持する私であるが、法律や政治で子ども達に道徳心や倫理観を養わせることはできないのも、現在日本の世相をみれば明白な事実であろう。
なにかと親が悪いのだといわれる昨今であるが、“子は親の鏡”というならば、
“世相は日本仏教界の鏡”なのではないであろうか?
つづく
檀家でお墓がある人も、郷里に跡取りがいないので都心郊外の“霊園”にお墓を移すことが盛んに行われている。
ある宗派で、実家のある郷里に跡継ぎや墓守がいなくなるとどうしても足が遠のく、というのでお坊さんにいわゆる“魂抜き”をしてもらい(もちろん有料)、都心の自分の住んでいる便のいい場所の同じ宗派のお寺の檀家になり、そこにお墓を移すということになった。しかしその宗派では、伝統的に農村部で信者が多かった為、都心やその郊外には寺も墓地も絶対数が足りない。そこで本部号令の元、都心郊外に墓地を建設している。
新たな墓地建設のいい土地がみつかっても、都心から高速を使っても2時間以上かかる所の場合には、客寄せパンダ、おっと失礼、信者を寄せる為の巨大モニュメントを建造したりしている。
かくゆう私も吸い寄せられるように馬鹿馬鹿しいと思いながらも先日拝観してきた。
これは、以外にも好評のようで、他の仏教国からもそのモニュメントを観るために観光バスで日参しているほどである。
その仏像型モニュメントにはエレベーターがついており、最上階まで上れば仏像の目のところから景色が一望できるようになっている。
その巨大さには度肝を抜かれたが、日本人や韓国人、中国人は次々と上っていくのにテーラワーダ(上座部)仏教の国から来た人々は、外から拝むだけで仏像の中に入って上ろうとはしない。その意味を日本人の僧侶や信徒は分っているのだろうか?と気恥ずかしい気分がした。
通夜や葬式はやる。しかし、お坊さんは呼ばずにヒーリングの音楽などでお経はない。したがって線香やお焼香というものもなく、一輪の花を参列者が献花台にそなえる。
あるいは、お焼香もお経もあるが、お経はCDなどということもある。
極めつけは、故人の遺言であるからと通夜や葬式は行わず、慢性的な火葬場不足の為、遺体をドライアイスなどで保存して数日待って焼き場に持っていって火葬にするだけ。
墓はもちろん位牌も仏壇も棺おけも骨壷もいらない、ただ焼いて、郷里の川にそっと流してくれというシンプルなものまで登場している。
いわゆる新宅で核家族の家庭には、神棚も仏壇も無い。
したがって宗教心も信仰心もない、というわけでなく、特定の宗旨宗派の檀家ではない。つまり、どれがいいかと言われれば仏教になるのだろうが、知り合いに坊さんもいないし、何だか金がたいそうかかかると檀家である友人から恨み節ともとれる愚痴をきいていると、檀家になり墓なぞ残したら子どもに迷惑をかけることになると考えてしまう。
また、笑い話のような切実な話しもチラホラ聞く。
自分の親の葬式は兄弟5人で出したから負担も1/5で済んだが、一人っ子の一人娘の我が家なんかは、婿に面倒見てもらうことになる。まだ婿ならいいが、娘が嫁にいったら他人に経済的負担を強いる事になる。かといって、実家の墓に長男で跡をとっている兄貴と一緒に入れてもらうわけにもいかない。
そこで、日本人は気付いてしまったのですね、そう“霊園”です。
友人葬・家族葬+宗教宗派を問わない霊園=安価で自由な葬儀と自由な墓石
これで、坊さんへのキックバック(コミッション)も葬儀の費用や墓石に上乗せされなくて済むじゃないかと・・・。
事情は、それぞれであろうが、先日の読売新聞の記事を下記に引用したい。
読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。
ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。
多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。
私はこの記事にある種のショックと警戒感、そして落胆を覚えた。
■全国の仏教寺院数 約7万7千か寺
■僧侶の数 約30万人
■信者数 約6000万人
ということになっている。これは、宗教法人を取得している団体だけで、仏教系施設や信者はさらに2割増し程度になると思われる。
すでに飽和状態と言われるコンビニエンスストアでさえ4万店舗前後である。
約7万7千か寺のハコモノと約30万人の僧侶と約6000万人の信者をようしている日本の大乗仏教界が1500年以上の時を経て、先祖崇拝と自然崇拝と神秘主義の無宗教国民を創り出してしまっているのである。
これでは、日本の国民が新宗教や新新宗教などの新興の宗教やカルトに流れてしまうのも致し方ないのではなかろうか!
政教分離の原則は支持する私であるが、法律や政治で子ども達に道徳心や倫理観を養わせることはできないのも、現在日本の世相をみれば明白な事実であろう。
なにかと親が悪いのだといわれる昨今であるが、“子は親の鏡”というならば、
“世相は日本仏教界の鏡”なのではないであろうか?
つづく
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