2008-10-02

宣教師の子が描く、釈尊と沙門の世界

シッダールタシッダールタ
(2006/01)
ヘルマン ヘッセ

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【内容情報】
一九二二年に刊行されたヘッセ中期の傑作『シッダールタ』はインドの青年シッダールタ(釈迦と同名だが別人)が生の真理をもとめて修行し、世俗の中に生き、人生の最後に悟りの境地にいたるまでを寓話的に描いた小説である。二十世紀に多くの若者に愛読された本書は新訳を得て、いまふたたび悩める現代人に読まれるべきである。

【著者情報】
ヘッセ,ヘルマン(Hesse,Hermann)
1877年ドイツ、ヴュルテンブルク州カルフに生まれる。詩人、作家。1946年ノーベル文学賞受賞。代表作に『郷愁』『車輪の下』『デーミアン』などがある。1962年スイスにて没

【翻訳者】
岡田朝雄(オカダアサオ)
1935年東京に生まれる。東洋大学教授
(「BOOK」データベースより)


かつて、ヒッピーのバイブルといわれた本だが、時を経ても色あせることなく道を求める人々の心を揺さぶる名著である。
ブッダが生きていた時代のインドを舞台に、青年シッダールタ(釈迦とは別人)が悟りを開く道程を描いた本書は、ヘッセの傑作。この寓話的な小説は、「人はなぜ生きるか」という深遠なる哲学的テーマを鮮やかに描く。
宣教師の子、ヘルマンヘッセが教会を脱退し、小説家として世に出てから大きなスランプと戦いながら生み出した作品である。徹底して平和主義を貫いたヘッセは、当時自国であるドイツでは評価されなかったが、むしろ国外で評価され、あらゆる言語に翻訳されて2000万部を超える大ベストセラーとなった。特にインドでは22以上の言語で翻訳され今なお読み継がれている。
・・・中泰

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2008-09-19

「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方

「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方
(2007/11)
カンポン・トーンブンヌム

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【目次】
第1章 事故に遭うまでの人生(「舟の民」として生まれて/辛かった寄宿舎生活 ほか)/第2章 法(タンマ)との出会い(苦しみで体と心が締めつけられる/内面の拠り所を探す ほか)/第3章 気づきの瞑想の実践(瞑想の修行を始める/心に変化が起こった ほか)/第4章 苦しまない生き方(開かれた神秘/心の障害にさようなら ほか)/「苦しまない生き方」に近づくための質問とその答え

【著者情報】
カンポン・トーンブンヌム(Kampol Thongbunnum)
1955年、タイ・ナコンサワン県生まれ。
1977年、アーントーン体育高等専門学校に体育教師として入職したが、2年後、水泳の模範演技中に事故に遭い全身不随に。その後、ルアンポー・カムキエン・スワンノー僧に師事し「気づきの瞑想」を修める。現在、寺院や病院、学校を中心に講演活動を行なっている

【監修】上田紀行(ウエダノリユキ)
1958年生まれ。
東京工業大学大学院准教授(社会理工学研究科、価値システム専攻)。東京大学大学院博士課程修了。愛媛大学助教授を経て、1996年4月より現職。国際日本文化研究センター助教授(1994〜97年)、東京大学助教授(2003〜05年)を併任。
日本仏教の再生に向けての運動に取り組み、2003年より「仏教ルネッサンス塾」塾長を務める。また、宗派を超えた若手僧侶のディスカッションの場である「ボーズ・ビー・アンビシャス」のアドバイザーでもある。2006年12月には、インド・ダラムサラにおいて2日間にわたってダライ・ラマ法王と対談を行ない、『目覚めよ仏教!ダライ・ラマとの対話』(NHKブックス)を刊行した

【監訳】プラ・ユキ・ナラテボー(Pura Yuki Narathevo)
1962年生まれ。本名、坂本秀幸。タイ・スカトー寺副住職。
上智大学卒業後、タイのチュラロンコン大学大学院に留学。研究テーマは農村開発におけるタイ僧侶の役割。机上の学問に飽き足らず、1年後の1988年、瞑想指導者として有名なルアンポー・カムキエン師のもとで出家。
以後、自ら村人とともに物心両面の幸せを目指し、東北タイのチャイヤプーム県スカトー寺の僧侶として活動する一方、日本とタイを結ぶ架け橋としても活躍。タイ大使館主催のソンクラーン祭(タイの正月を祝う祭)に招聘されたり、在日タイ人の支援活動にも携わっている。
近年、心や体に病を抱えた人、自己を見つめたいとスカトー寺を訪れる日本人も増え、彼らの水先案内人としての役割も果たしている

【訳】浦崎雅代(ウラサキマサヨ)
1972年生まれ。東京理科大学、東京工業大学非常勤講師。中央学術研究所委託研究員。東京工業大学大学院社会理工学研究科(価値システム)博士課程修了。琉球大学1年のとき、タイへのスタディーツアーに参加し南北問題に関心を持つ。琉球大学大学院修士課程在学中、タイ国チュラロンコン大学大学院政治学部(人類学・社会学コース)に2年間留学。開発僧による地域づくりや在家者との関係について、東北タイにあるスカトー寺にてフィールドワークを行なう。また、調査とともにヴィパッサナー瞑想を学ぶ。現在、瞑想、仏教の社会的貢献、スピリチュアリティをテーマに研究を深める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
(「BOOK」データベースより)

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2008-09-05

テーラワーダ仏教の実践―ブッダの教える自己開発

テーラワーダ仏教の実践―ブッダの教える自己開発テーラワーダ仏教の実践―ブッダの教える自己開発
(2007/09)
ポー・オー・パユットー師

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【内容情報】
1980年代以降のタイ農村では、ブッダの教えを指導原理として、テーラワーダ僧侶の指導が積極的に開発問題に取り組んできた。本書は彼ら「開発僧(かいほつそう)」を思想的に支えたタイの碩学・パユットー師の講演記録である。パユットー師は、それまでタイ社会の文脈で矮小化されがちだったテーラワーダ仏教の「実践・修習」の意味範囲をパーリ経典に即して定義しなおし、動的で活力に満ちた自他向上の方法論として再生した。仏教の修道と社会貢献の不可分性を説くパユットー師の言葉は、「エンゲージド・ブッディズム(社会参画仏教)」が叫ばれる現代において、あるべき仏教の未来形を先取りしている。

【目次】
第1部 仏教の心髄(仏教の要諦/仏教の心髄/生き方のための法の原理)/第2部 自己開発(物の開発から心の開発へ/開発(パッタナー)とは何か/自己開発の方法/自己開発の基本)/第3部 人間開発について(法は進歩するために使うもの(知足と放逸)/法の実践はバランスが必要(慈悲喜捨))

【著者情報】
ポー・オー・パユットー(P.O.Payutto)
1938年、スパンブリー県生まれ。本名プラユット・アーラヤーングーン・パユットー。十三歳で出家。沙弥にしてパーリ語試験の九段に合格し、1961年、エメラルド寺院にて得度。1964年、チュラロンコン仏教大学で仏教学の学位を取得。その後、各大学で名誉博士号を受賞。1994年、ユネスコ平和賞受賞。その他、受賞多数。現在、ナコンパトム県ヤーナウェーサカワン寺住職

【翻訳者】
野中耕一(ノナカコウイチ)
1934年、愛知県生まれ。1961年、東京大学農学部農業経済学科卒業。同年、アジア経済研究所入所。1965年、タイ国カセサート大学留学。1977年、アジア経済研究所バンコク事務所代表。1979年、JICA専門家としてタイ国メイズ開発計画に参加。1990年、タイ国チュラロンコン大学客員研究員。1992年、アジア経済研究所理事。1997年、川崎医療福祉大学客員教授。1983年、『農村開発顛末記』により第二十回翻訳文化賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
(「BOOK」データベースより)


以前の版よりも、表紙も象徴的な写真に差し替えられ、内容的にも非常に分りやすくなったと思う。翻訳者の見識の高さがうかがえる。内容は、泰国宗教局局長や学僧に対して語られた講演である。

法門の入り口に立った比丘や仏教徒が理解すべきレベルの内容だと師は言う。
とはいえ私などには、かなり難しい箇所もあるが、ブッダの説かれた法の要諦から話しは始まり、本職の比丘と在家の人々が何をどのように考え何をなすべきなのか?ということについて解りやすく展開していく。

そして師は、仏法を体系的に学ぶことが重要だと我々に諭し、その場合に注意すべき戒めにふれている。ブッダの教えを部分的に取り出してことさらに強調して教えの本道としたり、両極端な盲執にとらわれてはならない。さらに、修習とは自己開発であり、知足を知り不知足であらねばならないと、比丘や在家の信者が進むべき道を示している。また、そのなかで、欧米のテーラワーダ仏教研究者の仏法に対する誤認識の指摘も例をあげて説明している。

巻末の翻訳者のあとがきは18ページにわたるが、これがまた秀逸である。

私自身の、原始・根本仏教といわれる元々のブッダの教えの理解度をはかる意味でも、ことあるごとに繰り返し読んでいきたい・・・中泰

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2008-08-26

「お寺の経済学」を知れば無明による出費がなくなります!

お寺の経済学お寺の経済学
(2005/02)
中島 隆信

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【内容情報】

全国に四万店以上あるコンビニを軽く超え、七万五〇〇〇存在するというお寺。本書では、一〇万人以上の僧侶、六〇〇〇万人の信者が存在するというその巨大マーケットを経済学的に鋭く分析します。
生まれてから死ぬまで、お寺にまったく関係のない人はめずらしい割に、お寺のことをよく知らない日本人が多いのではないでしょうか。
本書を読めば、檀家制度、葬式、戒名、お墓から宗教法人への課税問題まで、お寺の仕組みがよくわかります。葬式仏教と揶揄されるお寺の未来など、現役の僧侶も知っておきたい話題が満載です。

【目次】

序章 今なぜお寺なのか/第1章 仏教の経済学/第2章 すべては檀家制度からはじまった/第3章 お寺は仏さまのもの/第4章 お坊さんは気楽な稼業か/第5章 今どきのお寺は本末転倒/第6章 お寺はタックス・ヘイブンか/第7章 葬式仏教のカラクリ/第8章 沖縄のお寺に学ぶ/第9章 お寺に未来はあるか

【著者情報】

中島隆信(ナカジマタカノブ)
1960年生まれ。83年慶応義塾大学経済学部卒業。慶応義塾大学商学部教授、商学博士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
(以上「BOOK」データベースより)


哲学者や仏教学者ではなく、純粋な経済学者が全く一から取材を始め、坦々と冷静に仏教を取り巻くビジネス、いわゆる“葬式仏教”を痛快に斬っていく。

日本伝統仏教教団運営の常識は、実勢社会の非常識だとし、檀家制度は人質ならぬ墓質制度であるから、ゆっくりとそして確実に20〜30年かけて崩壊していくとみている。
取材のなかで、現職の住職からも「半分程度の寺は淘汰されるであろうし、葬儀や法事が簡略化・緊縮していくのは強い流れであるので、1000件程度の優良檀家を確保しなければ立ち行かなくなる」とのコメントを得ている。
確かにお寺の言いなりであり続ける優良檀家が今後どれだけいるのであろうか?

沖縄のお寺・葬儀・法事事情を紹介し、檀家制度のない沖縄のお寺では、伝統仏教寺であるとか単立の寺であるとかは関係なく、宗教法人を取得していないお寺のお坊さんでさえも対等の立場であるという。

檀家制度のない沖縄では、圧倒的に葬祭社が実権をガッチリと握っており、坊主は葬儀社からの指名待ちであり、葬儀で読経しても顧客ニーズにそぐわなければ、法事の仕事は他の坊主に回されてしまうという。
そのために、坊さんが読経代としてもらった布施のなかから、葬儀社にキックバックする事さえたびたびあるという。本土とは間逆の立場になっている。その上、戒名の習慣もごく最近まで無かった為に、戒名代が高いと喪主に怒られたりするそうである。そうなれば、次回から葬儀社によるご指名はなくなるのであろう。

そして、お寺が生き残る道は、三つの内のどれかしかないと指針を示している。

門外漢の経済学者の目というフィルターを通すと、現状のお寺と葬式仏教のカラクリや浅ましい矛盾点がこんなにも解りやすくなるのかと驚く・・・中泰

『お寺の経済学』で坊主丸儲けは許しません NBonline(日経ビジネス)

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2008-08-19

インド仏教の今を知る

破天―一億の魂を掴んだ男破天―一億の魂を掴んだ男
(2000/12)
山際 素男 経歴

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著者によれば、ドエライ日本人坊主がブッダ生誕の地インドで、破天荒な奇跡を次々と起こし続けている。
主人公の法名は佐々井秀嶺(ささいしゅうれい)。自分の中にある血筋に苦しみ、甲斐の大善寺で寺男として過ごす。そこで住職に見込まれ、高尾山薬王院に上り得度。しかしながら、日本で納まりきれない秀嶺は、師僧の勧めでタイに於いて二年間修行したが、そこでも自分の居場所を見出せないでいた。
その後、帰国する前についでだからとインドの仏教聖地巡礼の旅にでる。

聖地で他宗派ではあるが、尊敬できる日本人僧と出会い自分の居場所を見つけたかに思えたのもつかの間、日本から来印したその宗派の宗祖とその取り巻きに嫌気がさしていく。

諦めて日本へ帰ると決めた最終日の夜更けに不思議な啓示的夢をみる。
秀嶺は、南天竜宮城=ナグプールを目指す。そこでアンベードカルの仏教運動と出逢い、インドで自分の存在意義を見つけてのめりこんでゆく。

その目まぐるしい展開には度肝をぬかれる。
劇画以上の圧倒的行動力で、インドの仏教徒をとりこにしていく。さらには、身分制度の中で苦しむ最下層民に救いの手を差し伸べ、巨大な仏教組織を作り上げていく。その数、一億5千万人を超えていく。その迫力と成果に本国の本山関係者や師僧も感嘆の声を上げることとなる。

その巨大な数と信仰心に支えられ、時のインド首相に悪態をつき困惑させながらも、大菩薩寺を仏教徒の手に取り戻す運動を生涯の天命として、厚く強固なあらゆる勢力と非暴力で戦っていく。

それはまさに“桁外れで破天荒な菩薩道”である。

そしてインドでは仏教は絶えていたという通説を根本から覆していく。かつてインドに確かに存在していた大乗仏教が、インド人本人達も分らないほど細々と変容しながらも残っていた事を発見し気付かされていく。それも、釈尊と同じシャカ族の末裔によってである。日本で例えるなら、さながら平家の落人といったところであろうか。

現在、絶版のため新書が入手困難なのが歯がゆい・・・中泰



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2008-08-12

「ブッダが考えたこと」 これが最初の仏教だ!

ブッダが考えたこと―これが最初の仏教だブッダが考えたこと―これが最初の仏教だ
(2004/11)
宮元 啓一

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【内容情報】
恐るべし。ゴータマ・ブッダの智慧。最も古い仏典の精読から、ブッダの思索の成り立ちとその核心に切り込む。「ゴータマ・ブッダの仏教」の真実とは何かを明らかにする、画期的論考。

【目次】
第1章 輪廻思想と出家の出現―仏教誕生の土壌/第2章 苦楽中道―ゴータマ・ブッダは何を発見したのか/第3章 経験論とゴータマ・ブッダの全知者性/第4章 修行完成者の生き方―ゴータマ・ブッダのプラグマティズム/第5章 苦、無常、非我/第6章 非人情、すなわち哲学

【著者情報】
宮元啓一(ミヤモトケイイチ)
1948年生まれ。東京大学文学部卒。博士(文学)。インド哲学専攻。現在、国学院大学文学部(哲学科)教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
(以上「BOOK」データベースより)


いやはや何とも傑出した著作と言うほかない。
15歳で仏教の解明という探究心を心に立てた少年が、宗教者の立場を選ばず、ただひたすらに学究の上に40年以上身を置き、その上で出した手法的結論。

それは、もともとのブッダの教えを説くパーリ語原始仏典を読み解くことであった。
「仏教とはなんぞや?」、著者の下した結論は、「最初の仏教」である。
それはまさしく表題にあるとおり、“ブッダが考えたこと”の解明である。

著者は最後に、仏教は世界三大宗教の一つである、というように、一般的には宗教として扱われている。しかし、ブッダとその教団は驚くほど「宗教」っぽくなかったと力説する。論じる人の立場によって、宗教にも哲学にも思想とも学問ともとることがある。

しかし、著者は断言する。 ゴータマ・ブッダとその教えは、“実践哲学”以外のなにものでもないことを・・・中泰

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2008-08-08

「お布施ってなに?」

お布施ってなに?―経典に学ぶお布施の話お布施ってなに?―経典に学ぶお布施の話
(2007/01)
藤本 晃

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【内容情報】
「あげる」「してあげる」お布施は人生の修行です。「お布施」についてお釈迦さまから学ぶ。

【目次】
1 お布施ってなに?(仏教ではお布施もしっかり定義されている/出家はお布施を語らない/バラモンたちもお釈迦さまに尋ねた ほか)/2 お布施にかかわる三者(お布施する人(施主)/お布施を受ける人/お布施されるもの(施物))/3 お布施の疑問あれこれ(「三輪清浄」のお布施って何?/寄付もお布施?/ダマされてもお布施になる? ほか)/4 お布施で「自我」の殻を破ろう

【著者情報】
藤本晃(フジモトアキラ)
1962年2月山口県生まれ。1985年3月学習院大学哲学科卒業。1987年3月龍谷大学修士課程(仏教学)修了。1993年6月カナダ・カルガリー大学修士課程(修教学)修了。2002年7月広島大学より博士号(文学)授与。現在、浄土真宗本願寺派誓教寺住職(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
(以上 「BOOK」データベースより)


現在の日本において、「お布施」に対してどのようなイメージがあるのだろうか?
なんとなく、不透明・不明瞭で怪しげな響きを放っていると感じるのが一般的ではないだろうか・・・。
なかには、人の弱り目祟り目につけこんでマインドコントロールのもとに、信者から大切なお金を巻き上げるシステム、もしくは先祖と墓を人質にとられているのでしかたなく、渋々取られるものという意見も多いであろう。

布施をする行為自体が、布施行という尊い行の一つであることは、一般的に知られていないか忘れ去られているのではないだろうか。

さて本書であるが、どこぞのお坊さんが、集金システムのすり込みを正当化するために話す講和のたぐいとは趣を異にしている。著者自体は、日本の伝統大乗宗祖教に僧籍を置いている訳だが、お布施について大乗仏教とテーラワーダ仏教(南伝 上座部仏教)の両立場の目線で分けて布施論を展開している。

布施の意義の根拠を、もともとのブッダの教えにもとづいたパーリ語仏典にもとめているところに、非常に共感がもてる。根拠としている仏典とその箇所を明記している。

ただし、それを現状の日本伝統大乗宗祖教に当て嵌めようという試みには、どうしてもいくつかの違和感をかんじざるを得ない。頭では著者が言っている事は理解するのだが・・・。
また、宗教とは名ばかりのカルトともいえる教団にお布施として巻き上げられた場合でも、布施しないよりはマシで、それなりに得を積んだ事になるのだという展開には驚かされる。

とはいえ、「お布施ってなに?」という疑問にお釈迦様が説いた“本当のところ”を知る上で、貴重な本であることは事実である。
全般的に、「お布施とは何ぞや?」というところを丁寧に仏典にあたって、一般の人にも解りやすい言葉で書かれた良書だと思う。この手の良識的・良心的手法による本は他に見当たらない。

仏事やお寺の維持のためにするお布施で、「いくら取られたっ!」という言葉を在家の信者に言わせない“仏教・お寺・お坊さん”のそろった仏国土、日本であって欲しいと切望する・・・中泰

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2008-07-01

「いま、釈迦のことば」 瀬戸内寂聴

いま、釈迦のことばいま、釈迦のことば
(2008/04/04)
瀬戸内 寂聴

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ごく一般の人々にとって、この方ほど有名な尼さまは、他に見当たらないほどの人物であろう。
著作業を経て出家されてからも数々の著書があり、京都に「寂庵」を開き、仏教者として活躍されている。また、2006年に文化勲章を受章されており、天台寺名誉住職、比叡山禅光坊住職の要職に就かれてもいる。


そんな寂聴尼が2008年4月の終わりに出版されたのが本書である。
ともすれば難しい内容になりがちな仏教解説書であるが、ダンマパダ(法句経)を中心に寂聴尼特有の心に染み込むような自然で平易な文体が魅力的である。

叡山に僧籍を置く寂聴尼が、あえてこの時世に原始仏教経典であるダンマパダを題材にとり肯定して、この本を著作された“意味合い”は大きいのではないかと思う。
非常に勇気ある行動でもあるし、叡山の寛容な包容力のなせる業なのか・・・。

ある意味、日本大乗や天台の教義と相反する部分もたぶんにあるのではないかと考える。
凡夫中の凡夫である私のゲスな勘ぐりなど、どうでもいいことである。
しかしながら、日本の大乗仏教界が当然当たり前と信じていた教えが揺らぐようになった明治以降のパーリ語・サンスクリット語原始仏典からの直接の日本語訳とその後の研究によって、私達日本人が信じている仏教とはなんなのか?という自己矛盾が常に傍らに存在してきた。

そこへきて、「いま、釈迦のことば」であるのだから感慨深い。

とうとう、この件にかんして、日本仏教の祖である天台のお山から事実上の解禁が暗に示されていると考えるのは早計であろうか?
時代の要請に敏感であり、積極的に俗人に法を説いてきた寂聴尼の行動だからこそ説得力が増すのであろう。本書を通じて是非とも沢山の方に原始仏教経典のブッダのもともとの教えに触れていただきたいと願う。

中泰




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2008-06-27

「夢をかなえるゾウ」にみる世相

夢をかなえるゾウ夢をかなえるゾウ
(2007/08/11)
水野敬也

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100万部以上を売り上げ、すでにTV化が決定している話題の本である。
2時間程度で読めるような平易な文体であるが内容はそれなりに深い。

非常に綿密な市場調査やマーケティングによりヒットするために練りに練られた企画本であると察する。
話しとしては滅茶苦茶である。印度のヒンズー教の神様であるガネーシャが極めて仏教的な発言をしていたり、お釈迦様が登場するのだが、ガネーシャ曰く、「最近、釈迦と飲みにいってないなぁ」などと発言する。お釈迦様は戒律の関係上、決して飲酒しないと思うのだが・・・。

細かい粗探しはこのへんにして本題にはいりたい。
要は次から次へと登場するHow to本の一種である。どうしたら成功者になれるのか?ガネーシャというヘンテコな神様がごく普通のサラリーマンの前に現れて“成功者への道”を屁理屈いっぱいに無理難題を言いながら指南していく。その中に、ささやかな分りやすいエピソードを盛り込みながらブラックジョークたっぷりに展開していく。

第一に、生活習慣を変えること、つまりものの考え方を変えてどのように実践に移していくか?すべては心の中の問題で、感謝の気持ちを忘れない事。
第二に、すべてのものは繋がっている。どのような結果にも原因があるということ。
第三に、環境が大事であるということ。等々・・・。

すでに多くの“成功本”に書き尽くされているネタである。それに特異なキャラクターを登場させ、多くの迷い人を導くがごとき、お釈迦様の教えをちりばめている、という程度である。
では、この本がどううして突出して売り上げを伸ばしたのであろうか?宗教と聞いただけで毛嫌いする人々が抵抗無くこの本に惹かれている。

反対に、現在の日本の伝統仏教界は、世間のニーズに疎いというか、汲み取った活動が十分に出来ていないのではないでしょうか?葬式仏教の暗いイメージと坊主丸儲け的発想が暗雲として居座っている限り、人々が仏教を求めているのに近づいていけない、そんな状況がこれからも続いていくのだろうなぁと思うと残念でならない。

この本に習うところは多分にあるのではなかろうか?・・・中泰

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2008-06-10

毒舌・仏教入門

毒舌・仏教入門 (集英社文庫)毒舌・仏教入門 (集英社文庫)
(1993/03)
今 東光

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昭和50年8月21日から5日間、東南寺で行なわれた戸津説法を収めた貴重な良書だと思う。

今東光(こん・とうこう)法名春聴は、天台宗の大僧正で直木賞作家、そして参議院議員まで勤めた人物である。川端康成、松本清張、瀬戸内寂聴などとも親交が深い方であった。

豪快にして緻密、毒舌をもって慈悲の心を示す。そんな人であったのであろう。時代の要請であったのか?そんな事には関係なくいつの時代にあっても、頭角を現す丹力をもっていたのかもしれない。どちらにしても、このような“人物”は、日本の大乗の素地からしか生まれ得なかったのだと思う。

気骨を持ちモノを言う、理不尽なものには一喝を浴びせ切り捨てる。なのにその強引ともいえるキャラクターで人々を引き付ける。

彼のような政治家はいる。
彼のような僧侶はいる。
彼のような作家はいる。

しかし、それを一人でやってのけるマルチぶりは尋常ではない。
小泉さんとダライラマと北野武とハマコーの要素をすべからく持ち合わせていたような人物である、と書いたら嘘のように聞こえるが、これが「毒舌・仏教入門」を読み終えた私の素直な感想である。

清々しい薫風を今も放ち続けているのである。

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2008-05-30

チベット旅行記 河口慧海

     
チベット旅行記 (上・下) 河口慧海

久しぶりにこの本を手にとって、14年ほど前の26、7歳の頃にシルクロードを西へ旅して、ウイグルから陸路ボロボロの最も安い公共のバスでチベットへ上り、その後困難な陸路にてネパールまで旅した時の酷い高山病に悩まされた事を思い出した。(こちらを参照フリー・チベット1〜4)
あれから私は、飛行機以外で3000メートル以上の高地には決して行くまいと誓い、今もなおその教訓を守っている。

河口慧海の時代とは違い、公共バスとランドクルーザーを駆使しての旅であった。

それでも、3つの困難がつきまとった。

1つ目に、高山病。チベット人は何でもないようであるが、東洋人も西洋人もこれにはやられた。特に高度順応時間が取れない飛行機でラサまできたような人々は、1分いくらで切り売りされる酸素吸入器のお世話になる事がしばしばであった。

2つ目に、漢民族が設置した数々の関所での検問とおびただしい数の監視カメラである。何処の関所が通れるとか閉められたとか、外国人は通れないとか、現地人はノーチェックだからそれなりの身なりで行けば日本人ならチベット人に見えるから行けないことも無いとか・・・。そんな旅行者同士の真偽の程はさだかではない情報に一喜一憂するするのが貧乏陸地移動旅行者の常であった。
今から考えれば何の根拠もないのだが、チベットに陸路で行って来たと言えば尊敬と憧れの目で見られたものである。空路でラサに行った者を見つけようものなら、ラサは金にモノを言わせて行くようなブルジョワの行く所じゃねー、などとウダウダとウンチクを垂れたりしていた。

3つ目に、チベット人の習慣と気質である。とにかく泥棒と強盗が多い。そしてお酒が大好きで、小競り合いやケンカがあとをたたない。それに大変に商売っ気が旺盛である。それでも概ね親日派の人々が大半でとてもよくしてもらった。

世間では、チベット=ポタラ宮殿とダライ・ラマみたいな図式になっていて、とてつもなく崇高で清貧で心優しい仏教徒の国、ということになっているが、私の見た限り、最も人間臭い国のうちの一つという印象である。ただし、印度とはある意味対極にあるのかもしれない。
印度では、地球上にある“人間のすべて”があるように感じたが、反対にチベットでは、これさえあれば人間は生きられるんだなぁ〜、的な潔さを感じた。




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2008-05-22

「タイの僧院にて」

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「タイの僧院にて」 青木保(あおきたもつ) 著者紹介・経歴

1976年に書かれたこの本は、文化人類学者の卵(当時は大学院生)の視点で書かれた良書として定評がある。昔から、バックパッカー旅行者のバイブルとでも言うべき書であり、タイ好きにははずせない一冊となっている。この本に影響を受け、泰国そして印度を目指した若者がかつてどれだけいたであろうか。

しかし、この本は全くの学術本というわけではなく、縁もゆかりもない一日本人の学生が、これまた日本人には馴染みの無いタイ国教であるテーラワーダ仏教(上座部仏教)に飛び込んでゆく実話体験談である。そこには、外国人であることの甘えなどが入り込む余地など一切無いガチンコの生活がある。一般のタイ人が一時出家するのとまったく同じ方法で僧院に飛び込み僧侶として生活していく著者の心情の変化が正直に告白されている。
文化人類学者のフィールドワークの域を超えた精神の冒険的試みが正直に書かれた本であるからこそ、世代や年齢、職種や信仰のハードルを越えて多くの方に読み続けられているのではないであろうか。

現在はこの良書が新刊で手に入らないのがもどかしい。
オークションや古本屋、そして図書館でさがす手間をかけてでも読むべき生の活力に満ちた、現代人への法門であるかもしれない、と考えるのは私だけであろうか?




theme : 仏教・佛教
genre : 学問・文化・芸術

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中道泰慈(なかみちたいじ)

Author:中泰(ちゅうたい)
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