2008-06-27
「夢をかなえるゾウ」にみる世相
![]() | 夢をかなえるゾウ (2007/08/11) 水野敬也 商品詳細を見る |
100万部以上を売り上げ、すでにTV化が決定している話題の本である。
2時間程度で読めるような平易な文体であるが内容はそれなりに深い。
非常に綿密な市場調査やマーケティングによりヒットするために練りに練られた企画本であると察する。
話しとしては滅茶苦茶である。印度のヒンズー教の神様であるガネーシャが極めて仏教的な発言をしていたり、お釈迦様が登場するのだが、ガネーシャ曰く、「最近、釈迦と飲みにいってないなぁ」などと発言する。お釈迦様は戒律の関係上、決して飲酒しないと思うのだが・・・。
細かい粗探しはこのへんにして本題にはいりたい。
要は次から次へと登場するHow to本の一種である。どうしたら成功者になれるのか?ガネーシャというヘンテコな神様がごく普通のサラリーマンの前に現れて“成功者への道”を屁理屈いっぱいに無理難題を言いながら指南していく。その中に、ささやかな分りやすいエピソードを盛り込みながらブラックジョークたっぷりに展開していく。
第一に、生活習慣を変えること、つまりものの考え方を変えてどのように実践に移していくか?すべては心の中の問題で、感謝の気持ちを忘れない事。
第二に、すべてのものは繋がっている。どのような結果にも原因があるということ。
第三に、環境が大事であるということ。等々・・・。
すでに多くの“成功本”に書き尽くされているネタである。それに特異なキャラクターを登場させ、多くの迷い人を導くがごとき、お釈迦様の教えをちりばめている、という程度である。
では、この本がどううして突出して売り上げを伸ばしたのであろうか?宗教と聞いただけで毛嫌いする人々が抵抗無くこの本に惹かれている。
反対に、現在の日本の伝統仏教界は、世間のニーズに疎いというか、汲み取った活動が十分に出来ていないのではないでしょうか?葬式仏教の暗いイメージと坊主丸儲け的発想が暗雲として居座っている限り、人々が仏教を求めているのに近づいていけない、そんな状況がこれからも続いていくのだろうなぁと思うと残念でならない。
この本に習うところは多分にあるのではなかろうか?・・・中泰
2008-06-26
日本の仏教難民 ??? 4
あるお坊さんを囲む宗派を超えた集まりに参加してみた。
そこには、多様な日本大乗のお坊さん方も参加されており、とてもフランクな雰囲気のなかで一般参加者からタブーなき?質問や相談がされています。
この会には、宗旨宗派も関係なく、さらにはお坊さんも上座部(南伝)も大乗(北伝)も入り混じり、中には本職の神道の宮司さんもいらっしゃり、私にとってこの光景は、新鮮でもあり非常に衝撃的でもありました。
私のような考えの方がこんなにも沢山いらっしゃるんだと心強くも感じました。
非常にユニークなそのお坊さんは、私のワダカマリを少しづつほぐしてくれた。
私の発心の経緯から、パーリ語やサンスクリット語原典から日本語に直に訳されたブッタの教えそのものに惹かれていること、そして日本の葬式とお墓を取り巻く“葬式仏教”ビジネスに関する疑問を率直にぶつけてみた。
そのお坊さんは、「貴方は、ごく普通の感覚の持ち主だと思いますよ、ただ半分正しくて半分疑問が残りますな」と穏やかに答えると、分りやすい言葉を選んで話しをしてくれた。
以下、お坊様のお話しの要約です。
あなたが、発心するきっかけとなったのが、パーリ語やサンスクリット語原典から日本語に直に訳されたブッタの教えであったことは、非常に幸運なことです、幸せなことですよ。
貴方が明治以前の日本人であれば知る由もなかったことが、生死をかけた冒険のうえでしかたどりつけなかった教えに、数々の書籍やインターネットによって直に触れる事ができるのですから。
私はね、矛盾しているように思われるかもしれませんが、頭とマユを剃りこんな格好(衣)をしていますが、宗教が大嫌いなんです。
2525年前に実在した人間ブッダとその教えに帰依しています。
宗教と捉えずに、2525年前に印度に実在したブッタの教えは、現世で心穏やかに地球上のすべての生きとし生けるものが幸せであるための“実践哲学”であると考えています。ですから、勉強も必要ですが、それだけではなく身をもってブッタの言っている事はこうゆうことだったのかと、できることから実践していくことが大切なことなのです。
難しい教学は立派な先生方の研究書をお読みになればそれで事足りるのではないでしょうか?
私のような凡夫の大多数の人間は、ブッタの教えに触れて20年やそこら修行したところで悟れるわけでもありません。227の戒律を守り、ブッタの教えにご縁をいただいた私のような人間ができることは、もともとのブッタの教えを知って欲しい。ただ、それだけなのです。このような集まりもその一環と考えています。
それでも、人生の節目で決断を迫られる時、ブッダならどのような考えの下にどのように行動するであろうか?それが私の行動規範となっています。
日本で坊主や仏教徒であること=すなわちブッタの説かれた道を正しく進んでいる者であること、では無いと言えるのは事実だと思います。しかし、だからといってオリジナリティーあふれる日本の大乗が間違っているとかテーラワーダ(上座部)が正統だとかということにはならないと思います。
とにかくね、“仏教オタク”はいらないんですよ!
入り口は何処でもいいんだと思います。貴方が信じる信仰のままでいいから、紆余曲折を経て伝播し、進化発展していく前の、この世に実在した人間ブッタの説かれた実践哲学を知って欲しいんです。
貴方は、日本のお寺とお坊さんの現状から、日本の大乗に懐疑的になっておられるようだが、坊主とて食っていかなければならない。
スリランカやタイやミャンマーなどのテーラワーダの国々では坊主は比丘(乞食)なんです。托鉢によって、つまり坊主側が一般の方々から慈悲を施されて命をつないでいます。それは、喜捨をして得を積むという考え方が国土の隅々まで浸透して脈々と受け継がれているから成り立つことです。
日本の大乗では、寺や坊主が一般の方々や故人とそのご遺族にご利益を与えて布施を頂き生活をしています。その際たるものが檀家制度ではないでしょうか。
そう考えるならば、お寺の集金システムと大乗の教えとは切り離されて考えてみたらいかがでしょうか?そうしないとポイントがずれてしまいます。
日本の大乗が、確かに人間ブッダが生きている間に説いた教えとは、かけ離れている部分もあるでしょう。しかし、この日本という国土の上で1500年以上かけて熟成されてきた大乗の教えの中に素晴らしいものも沢山あるのです。戒律に関してもこの立場に立ってみたらいかがですか?
私はこのお話しを聞いてから、仏教が益々好きになりました。
この先、仏教徒として歩んで行く上で私の大きな指針を頂いたように思います。
おわり
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そこには、多様な日本大乗のお坊さん方も参加されており、とてもフランクな雰囲気のなかで一般参加者からタブーなき?質問や相談がされています。
この会には、宗旨宗派も関係なく、さらにはお坊さんも上座部(南伝)も大乗(北伝)も入り混じり、中には本職の神道の宮司さんもいらっしゃり、私にとってこの光景は、新鮮でもあり非常に衝撃的でもありました。
私のような考えの方がこんなにも沢山いらっしゃるんだと心強くも感じました。
非常にユニークなそのお坊さんは、私のワダカマリを少しづつほぐしてくれた。
私の発心の経緯から、パーリ語やサンスクリット語原典から日本語に直に訳されたブッタの教えそのものに惹かれていること、そして日本の葬式とお墓を取り巻く“葬式仏教”ビジネスに関する疑問を率直にぶつけてみた。
そのお坊さんは、「貴方は、ごく普通の感覚の持ち主だと思いますよ、ただ半分正しくて半分疑問が残りますな」と穏やかに答えると、分りやすい言葉を選んで話しをしてくれた。
以下、お坊様のお話しの要約です。
あなたが、発心するきっかけとなったのが、パーリ語やサンスクリット語原典から日本語に直に訳されたブッタの教えであったことは、非常に幸運なことです、幸せなことですよ。
貴方が明治以前の日本人であれば知る由もなかったことが、生死をかけた冒険のうえでしかたどりつけなかった教えに、数々の書籍やインターネットによって直に触れる事ができるのですから。
私はね、矛盾しているように思われるかもしれませんが、頭とマユを剃りこんな格好(衣)をしていますが、宗教が大嫌いなんです。
2525年前に実在した人間ブッダとその教えに帰依しています。
宗教と捉えずに、2525年前に印度に実在したブッタの教えは、現世で心穏やかに地球上のすべての生きとし生けるものが幸せであるための“実践哲学”であると考えています。ですから、勉強も必要ですが、それだけではなく身をもってブッタの言っている事はこうゆうことだったのかと、できることから実践していくことが大切なことなのです。
難しい教学は立派な先生方の研究書をお読みになればそれで事足りるのではないでしょうか?
私のような凡夫の大多数の人間は、ブッタの教えに触れて20年やそこら修行したところで悟れるわけでもありません。227の戒律を守り、ブッタの教えにご縁をいただいた私のような人間ができることは、もともとのブッタの教えを知って欲しい。ただ、それだけなのです。このような集まりもその一環と考えています。
それでも、人生の節目で決断を迫られる時、ブッダならどのような考えの下にどのように行動するであろうか?それが私の行動規範となっています。
日本で坊主や仏教徒であること=すなわちブッタの説かれた道を正しく進んでいる者であること、では無いと言えるのは事実だと思います。しかし、だからといってオリジナリティーあふれる日本の大乗が間違っているとかテーラワーダ(上座部)が正統だとかということにはならないと思います。
とにかくね、“仏教オタク”はいらないんですよ!
入り口は何処でもいいんだと思います。貴方が信じる信仰のままでいいから、紆余曲折を経て伝播し、進化発展していく前の、この世に実在した人間ブッタの説かれた実践哲学を知って欲しいんです。
貴方は、日本のお寺とお坊さんの現状から、日本の大乗に懐疑的になっておられるようだが、坊主とて食っていかなければならない。
スリランカやタイやミャンマーなどのテーラワーダの国々では坊主は比丘(乞食)なんです。托鉢によって、つまり坊主側が一般の方々から慈悲を施されて命をつないでいます。それは、喜捨をして得を積むという考え方が国土の隅々まで浸透して脈々と受け継がれているから成り立つことです。
日本の大乗では、寺や坊主が一般の方々や故人とそのご遺族にご利益を与えて布施を頂き生活をしています。その際たるものが檀家制度ではないでしょうか。
そう考えるならば、お寺の集金システムと大乗の教えとは切り離されて考えてみたらいかがでしょうか?そうしないとポイントがずれてしまいます。
日本の大乗が、確かに人間ブッダが生きている間に説いた教えとは、かけ離れている部分もあるでしょう。しかし、この日本という国土の上で1500年以上かけて熟成されてきた大乗の教えの中に素晴らしいものも沢山あるのです。戒律に関してもこの立場に立ってみたらいかがですか?
私はこのお話しを聞いてから、仏教が益々好きになりました。
この先、仏教徒として歩んで行く上で私の大きな指針を頂いたように思います。
おわり
2008-06-12
日本の仏教難民 ??? 3
日本の仏教難民 ??? 1・2を読んでビックリするほどのレスポンスの速さで、多数のコメントやメールを頂いた。が、しかしそのすべての方のコメントが管理者だけが読む事を希望されており、コメントでなくメールという形で頂いた方々も同じ心情なのであろう。
自分の意見であるコメントを公表して人の意見を聞けるいいチャンスだと思うのですが・・・。
お坊さんや関係者からのご意見も是非ともお寄せいただきたい。
それだけ、微妙な問題に足を突っ込んでしまった、ということであろうか?
今や仏教学者から一般の人々まで公然の事実ですよね。もちろん分っていても立場上言えない方もおられるでしょう。
さて、本題に入ります。
実家に住んでいるが新宅の核家族で神棚も仏壇もない、そんな宗教とは縁遠い人間が、あるいは宗教が大嫌いな人間が、ある日ふとしたことから発心したとします。言い換えればブッダの教えに触れて心の扉が開いたとしましょう。
貴方ならどうしますか?
いきなり仕事を辞めて仏教大学に行くわけにもいかず、ましてやすべてを捨てて出家するわけにもいかない。と考えると近所のお寺にでもいって和尚に聴いてみるか、となるのだが、世間での一般的なお寺の坊主の印象は、宗教法人をいいことに“坊主まる儲け”でやりたい放題というイメージがつきまとう。
ここまで書いたのは、お察しのとうりで私がガラにもなく発心した頃の話しである。この頃の私はブッダとは誰で、どんな事をいっているのか?ということが無性に知りたくて知りたくて渇望していた。そして、お坊さんとお寺と葬式と取り巻き業者を包括する日本の仏教の巧妙な集金システムに憤りと偏見をもっていた。
というのも、立て続けにこんな思いをしたからである。
時間があるときには夕方にウォーキングをしていた。丁度その中間地点にお寺があり、清々しい気持ちで境内を通って折り返して自宅に戻るのが丁度いいコースであった。一週間に一度ぐらいは賽銭をいれて手を合わせることもあった。何度もお寺の奥様と思われる方と境内でお会いし、笑顔で会釈をしてくれるようになった。そんなある日、その方から「檀家様ですか?」と声をかけられたので、違うのだが仏教に興味があるので勉強させてもらえませんかとの私の声をさえぎり、「檀家様以外の境内への立ち入りはご遠慮していただいております」と手のひらを返したようにぶっきらぼうに言われた。
また、こんな事もあった。
ネットで調べてみると、自宅から車でわりと近いお寺で毎月法話会があるという。
電話で問い合わせてみると、檀家でなくてもどなた様もお越し下さい、と言われたので仕事を早めに切り上げて参加してみた。だいぶ早く着いてしまい、和尚が対応してくれたので思い切って自分の気持ちを話してみた。
「最近、仏教に興味をもって印度で発祥した仏教とかブッダそのものとか、もともとのブッダの教えとか、そおいうところから勉強を始めてみたい」と正直に話してみた。
すると、面倒くさそうな顔つきになり驚くべき答えが返ってきた。
和尚曰く、「うちではそおいう話はしませんよ、うちは○○宗ですから開祖○○の説いた教義に関する勉強会になりますな、だいたいそんなややこしい事を知っても何の役にも立ちません、ただ○○を唱えればいいんです、簡単でしょ、誰でも極楽浄土にいけますよ、お墓は後からでいいので檀家になられたらどうですか?」と切り捨てられた。
その後の法話会も聞いていたが、如何に戒名が大事であるかとか、ご先祖様の祭り方とか、現在宗門の大学に通っている息子の自慢話とかに終始していて、白々しくて聞いていられないので途中で帰ってきたのであった。
つまり、法話会とは名ばかりで、ブッダの教えはどこにも欠片もなく、お寺の集金システムの“すり込み”に終始しているのである。
では、私のような人間はどうしたらよいのであろうか?
ご縁が無いと諦めるか、ジッとご縁が廻ってくるのを待てばいいのであろうか?
しかるに、私のような人間が行き着く先は、新興の宗教ということになりやすい。
しかし、私はそうはならない。なぜなら矛盾しているようであるが、私は宗教が嫌いなのである。
そんな人間がたどり着く先が、“書斎仏教”である。
しかし、これはこれで問題がある。
ブッダの教えを知り吸収していくのは楽しいのだが、まるで仏教学のような視点で仏教を見るようになってしまい、いっこうに信仰にならないのである。
数々の宗教の中からやっと仏教と決めたのに、宗旨宗派を選ぶのが至難の業である。
あるお寺の息子(彼は普通の公務員)にそっと相談してみると、うちの宗派は何かと金がかかるから、○○宗は割と良心的らしいよ、などと訳の分らぬ判断基準をもとに○○宗を推薦してくれた。坊主の身内からしてこうなのだから、いよいよ悩ましい現状である。
ところが数ヶ月して、そんな私の陳腐な考えを打ち砕き、道を示してくれるお坊さんが現れることとなった。まさに不思議なご縁としか言いようがない。
つづく
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自分の意見であるコメントを公表して人の意見を聞けるいいチャンスだと思うのですが・・・。
お坊さんや関係者からのご意見も是非ともお寄せいただきたい。
それだけ、微妙な問題に足を突っ込んでしまった、ということであろうか?
今や仏教学者から一般の人々まで公然の事実ですよね。もちろん分っていても立場上言えない方もおられるでしょう。
さて、本題に入ります。
実家に住んでいるが新宅の核家族で神棚も仏壇もない、そんな宗教とは縁遠い人間が、あるいは宗教が大嫌いな人間が、ある日ふとしたことから発心したとします。言い換えればブッダの教えに触れて心の扉が開いたとしましょう。
貴方ならどうしますか?
いきなり仕事を辞めて仏教大学に行くわけにもいかず、ましてやすべてを捨てて出家するわけにもいかない。と考えると近所のお寺にでもいって和尚に聴いてみるか、となるのだが、世間での一般的なお寺の坊主の印象は、宗教法人をいいことに“坊主まる儲け”でやりたい放題というイメージがつきまとう。
ここまで書いたのは、お察しのとうりで私がガラにもなく発心した頃の話しである。この頃の私はブッダとは誰で、どんな事をいっているのか?ということが無性に知りたくて知りたくて渇望していた。そして、お坊さんとお寺と葬式と取り巻き業者を包括する日本の仏教の巧妙な集金システムに憤りと偏見をもっていた。
というのも、立て続けにこんな思いをしたからである。
時間があるときには夕方にウォーキングをしていた。丁度その中間地点にお寺があり、清々しい気持ちで境内を通って折り返して自宅に戻るのが丁度いいコースであった。一週間に一度ぐらいは賽銭をいれて手を合わせることもあった。何度もお寺の奥様と思われる方と境内でお会いし、笑顔で会釈をしてくれるようになった。そんなある日、その方から「檀家様ですか?」と声をかけられたので、違うのだが仏教に興味があるので勉強させてもらえませんかとの私の声をさえぎり、「檀家様以外の境内への立ち入りはご遠慮していただいております」と手のひらを返したようにぶっきらぼうに言われた。
また、こんな事もあった。
ネットで調べてみると、自宅から車でわりと近いお寺で毎月法話会があるという。
電話で問い合わせてみると、檀家でなくてもどなた様もお越し下さい、と言われたので仕事を早めに切り上げて参加してみた。だいぶ早く着いてしまい、和尚が対応してくれたので思い切って自分の気持ちを話してみた。
「最近、仏教に興味をもって印度で発祥した仏教とかブッダそのものとか、もともとのブッダの教えとか、そおいうところから勉強を始めてみたい」と正直に話してみた。
すると、面倒くさそうな顔つきになり驚くべき答えが返ってきた。
和尚曰く、「うちではそおいう話はしませんよ、うちは○○宗ですから開祖○○の説いた教義に関する勉強会になりますな、だいたいそんなややこしい事を知っても何の役にも立ちません、ただ○○を唱えればいいんです、簡単でしょ、誰でも極楽浄土にいけますよ、お墓は後からでいいので檀家になられたらどうですか?」と切り捨てられた。
その後の法話会も聞いていたが、如何に戒名が大事であるかとか、ご先祖様の祭り方とか、現在宗門の大学に通っている息子の自慢話とかに終始していて、白々しくて聞いていられないので途中で帰ってきたのであった。
つまり、法話会とは名ばかりで、ブッダの教えはどこにも欠片もなく、お寺の集金システムの“すり込み”に終始しているのである。
では、私のような人間はどうしたらよいのであろうか?
ご縁が無いと諦めるか、ジッとご縁が廻ってくるのを待てばいいのであろうか?
しかるに、私のような人間が行き着く先は、新興の宗教ということになりやすい。
しかし、私はそうはならない。なぜなら矛盾しているようであるが、私は宗教が嫌いなのである。
そんな人間がたどり着く先が、“書斎仏教”である。
しかし、これはこれで問題がある。
ブッダの教えを知り吸収していくのは楽しいのだが、まるで仏教学のような視点で仏教を見るようになってしまい、いっこうに信仰にならないのである。
数々の宗教の中からやっと仏教と決めたのに、宗旨宗派を選ぶのが至難の業である。
あるお寺の息子(彼は普通の公務員)にそっと相談してみると、うちの宗派は何かと金がかかるから、○○宗は割と良心的らしいよ、などと訳の分らぬ判断基準をもとに○○宗を推薦してくれた。坊主の身内からしてこうなのだから、いよいよ悩ましい現状である。
ところが数ヶ月して、そんな私の陳腐な考えを打ち砕き、道を示してくれるお坊さんが現れることとなった。まさに不思議なご縁としか言いようがない。
つづく
2008-06-11
日本の仏教難民 ??? 2
最近は、「友人葬・家族葬」なる僧侶を呼ばずに、遺族・親族・友人など、故人と親しい人のみによって執り行う葬儀・告別式が都心部を中心に一般化し始めている。
檀家でお墓がある人も、郷里に跡取りがいないので都心郊外の“霊園”にお墓を移すことが盛んに行われている。
ある宗派で、実家のある郷里に跡継ぎや墓守がいなくなるとどうしても足が遠のく、というのでお坊さんにいわゆる“魂抜き”をしてもらい(もちろん有料)、都心の自分の住んでいる便のいい場所の同じ宗派のお寺の檀家になり、そこにお墓を移すということになった。しかしその宗派では、伝統的に農村部で信者が多かった為、都心やその郊外には寺も墓地も絶対数が足りない。そこで本部号令の元、都心郊外に墓地を建設している。
新たな墓地建設のいい土地がみつかっても、都心から高速を使っても2時間以上かかる所の場合には、客寄せパンダ、おっと失礼、信者を寄せる為の巨大モニュメントを建造したりしている。
かくゆう私も吸い寄せられるように馬鹿馬鹿しいと思いながらも先日拝観してきた。
これは、以外にも好評のようで、他の仏教国からもそのモニュメントを観るために観光バスで日参しているほどである。
その仏像型モニュメントにはエレベーターがついており、最上階まで上れば仏像の目のところから景色が一望できるようになっている。
その巨大さには度肝を抜かれたが、日本人や韓国人、中国人は次々と上っていくのにテーラワーダ(上座部)仏教の国から来た人々は、外から拝むだけで仏像の中に入って上ろうとはしない。その意味を日本人の僧侶や信徒は分っているのだろうか?と気恥ずかしい気分がした。
通夜や葬式はやる。しかし、お坊さんは呼ばずにヒーリングの音楽などでお経はない。したがって線香やお焼香というものもなく、一輪の花を参列者が献花台にそなえる。
あるいは、お焼香もお経もあるが、お経はCDなどということもある。
極めつけは、故人の遺言であるからと通夜や葬式は行わず、慢性的な火葬場不足の為、遺体をドライアイスなどで保存して数日待って焼き場に持っていって火葬にするだけ。
墓はもちろん位牌も仏壇も棺おけも骨壷もいらない、ただ焼いて、郷里の川にそっと流してくれというシンプルなものまで登場している。
いわゆる新宅で核家族の家庭には、神棚も仏壇も無い。
したがって宗教心も信仰心もない、というわけでなく、特定の宗旨宗派の檀家ではない。つまり、どれがいいかと言われれば仏教になるのだろうが、知り合いに坊さんもいないし、何だか金がたいそうかかかると檀家である友人から恨み節ともとれる愚痴をきいていると、檀家になり墓なぞ残したら子どもに迷惑をかけることになると考えてしまう。
また、笑い話のような切実な話しもチラホラ聞く。
自分の親の葬式は兄弟5人で出したから負担も1/5で済んだが、一人っ子の一人娘の我が家なんかは、婿に面倒見てもらうことになる。まだ婿ならいいが、娘が嫁にいったら他人に経済的負担を強いる事になる。かといって、実家の墓に長男で跡をとっている兄貴と一緒に入れてもらうわけにもいかない。
そこで、日本人は気付いてしまったのですね、そう“霊園”です。
友人葬・家族葬+宗教宗派を問わない霊園=安価で自由な葬儀と自由な墓石
これで、坊さんへのキックバック(コミッション)も葬儀の費用や墓石に上乗せされなくて済むじゃないかと・・・。
事情は、それぞれであろうが、先日の読売新聞の記事を下記に引用したい。
読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。
ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。
多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。
私はこの記事にある種のショックと警戒感、そして落胆を覚えた。
■全国の仏教寺院数 約7万7千か寺
■僧侶の数 約30万人
■信者数 約6000万人
ということになっている。これは、宗教法人を取得している団体だけで、仏教系施設や信者はさらに2割増し程度になると思われる。
すでに飽和状態と言われるコンビニエンスストアでさえ4万店舗前後である。
約7万7千か寺のハコモノと約30万人の僧侶と約6000万人の信者をようしている日本の大乗仏教界が1500年以上の時を経て、先祖崇拝と自然崇拝と神秘主義の無宗教国民を創り出してしまっているのである。
これでは、日本の国民が新宗教や新新宗教などの新興の宗教やカルトに流れてしまうのも致し方ないのではなかろうか!
政教分離の原則は支持する私であるが、法律や政治で子ども達に道徳心や倫理観を養わせることはできないのも、現在日本の世相をみれば明白な事実であろう。
なにかと親が悪いのだといわれる昨今であるが、“子は親の鏡”というならば、
“世相は日本仏教界の鏡”なのではないであろうか?
つづく
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檀家でお墓がある人も、郷里に跡取りがいないので都心郊外の“霊園”にお墓を移すことが盛んに行われている。
ある宗派で、実家のある郷里に跡継ぎや墓守がいなくなるとどうしても足が遠のく、というのでお坊さんにいわゆる“魂抜き”をしてもらい(もちろん有料)、都心の自分の住んでいる便のいい場所の同じ宗派のお寺の檀家になり、そこにお墓を移すということになった。しかしその宗派では、伝統的に農村部で信者が多かった為、都心やその郊外には寺も墓地も絶対数が足りない。そこで本部号令の元、都心郊外に墓地を建設している。
新たな墓地建設のいい土地がみつかっても、都心から高速を使っても2時間以上かかる所の場合には、客寄せパンダ、おっと失礼、信者を寄せる為の巨大モニュメントを建造したりしている。
かくゆう私も吸い寄せられるように馬鹿馬鹿しいと思いながらも先日拝観してきた。
これは、以外にも好評のようで、他の仏教国からもそのモニュメントを観るために観光バスで日参しているほどである。
その仏像型モニュメントにはエレベーターがついており、最上階まで上れば仏像の目のところから景色が一望できるようになっている。
その巨大さには度肝を抜かれたが、日本人や韓国人、中国人は次々と上っていくのにテーラワーダ(上座部)仏教の国から来た人々は、外から拝むだけで仏像の中に入って上ろうとはしない。その意味を日本人の僧侶や信徒は分っているのだろうか?と気恥ずかしい気分がした。
通夜や葬式はやる。しかし、お坊さんは呼ばずにヒーリングの音楽などでお経はない。したがって線香やお焼香というものもなく、一輪の花を参列者が献花台にそなえる。
あるいは、お焼香もお経もあるが、お経はCDなどということもある。
極めつけは、故人の遺言であるからと通夜や葬式は行わず、慢性的な火葬場不足の為、遺体をドライアイスなどで保存して数日待って焼き場に持っていって火葬にするだけ。
墓はもちろん位牌も仏壇も棺おけも骨壷もいらない、ただ焼いて、郷里の川にそっと流してくれというシンプルなものまで登場している。
いわゆる新宅で核家族の家庭には、神棚も仏壇も無い。
したがって宗教心も信仰心もない、というわけでなく、特定の宗旨宗派の檀家ではない。つまり、どれがいいかと言われれば仏教になるのだろうが、知り合いに坊さんもいないし、何だか金がたいそうかかかると檀家である友人から恨み節ともとれる愚痴をきいていると、檀家になり墓なぞ残したら子どもに迷惑をかけることになると考えてしまう。
また、笑い話のような切実な話しもチラホラ聞く。
自分の親の葬式は兄弟5人で出したから負担も1/5で済んだが、一人っ子の一人娘の我が家なんかは、婿に面倒見てもらうことになる。まだ婿ならいいが、娘が嫁にいったら他人に経済的負担を強いる事になる。かといって、実家の墓に長男で跡をとっている兄貴と一緒に入れてもらうわけにもいかない。
そこで、日本人は気付いてしまったのですね、そう“霊園”です。
友人葬・家族葬+宗教宗派を問わない霊園=安価で自由な葬儀と自由な墓石
これで、坊さんへのキックバック(コミッション)も葬儀の費用や墓石に上乗せされなくて済むじゃないかと・・・。
事情は、それぞれであろうが、先日の読売新聞の記事を下記に引用したい。
読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。
ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。
多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。
私はこの記事にある種のショックと警戒感、そして落胆を覚えた。
■全国の仏教寺院数 約7万7千か寺
■僧侶の数 約30万人
■信者数 約6000万人
ということになっている。これは、宗教法人を取得している団体だけで、仏教系施設や信者はさらに2割増し程度になると思われる。
すでに飽和状態と言われるコンビニエンスストアでさえ4万店舗前後である。
約7万7千か寺のハコモノと約30万人の僧侶と約6000万人の信者をようしている日本の大乗仏教界が1500年以上の時を経て、先祖崇拝と自然崇拝と神秘主義の無宗教国民を創り出してしまっているのである。
これでは、日本の国民が新宗教や新新宗教などの新興の宗教やカルトに流れてしまうのも致し方ないのではなかろうか!
政教分離の原則は支持する私であるが、法律や政治で子ども達に道徳心や倫理観を養わせることはできないのも、現在日本の世相をみれば明白な事実であろう。
なにかと親が悪いのだといわれる昨今であるが、“子は親の鏡”というならば、
“世相は日本仏教界の鏡”なのではないであろうか?
つづく
2008-06-11
日本の仏教難民 ??? 1
「葬式仏教」などと揶揄されて久しい日本の仏教、それは本当に仏教なのであろうか?
それが仏教だとしても、ブッダの教えであるとは言いがたい状況である。それでも、各宗旨宗派の超進化をとげ飛躍した教えじたいで救われる人はそれはそれでいいのだと考える。
どの宗教も、お国柄や気候・風土、地理的条件や土着の民間信仰などの影響をうけながらその土地に根付いていく。
キリスト教の側からみれば、米国(連合軍)が占領しあの手この手で試みて、憲法や法改正までしたのにイエスの教えが根付かない脅威の国、日本と言われているらしい。
最近ではこの反省に立ち、キリスト協会でも一回忌や五回忌の法要にあたるものを取り入れている所もある。
いつの頃からかはさだかではないが、日本人の先祖崇拝の素地はいたって強固である。
先祖が、父や祖父、祖祖父としてそのままあり、自分達一族を見守っていてくれる。だから葬儀や墓参り、法要をおろそかにはできないし、良い事でも悪い事でも重要なことがあったときには墓参りをして墓前に手を合わせるという行為に繋がる。
先祖が非常に大きく有益な土地や既得ビジネスモデルを遺産として残してくれたおかげで、我が一族は申し訳ないぐらい金には困らず、悠々自適の人生を送っている。
御先祖様の誰が欠けても、私という存在はこの世に存在できない。自分や家族、一族が幸せであるのは御先祖様のおかげです、というのなら非常に分りやすい。
これってまさしく、お寺に生まれて世襲制のために和尚になり、妻帯して子どもをもうけ、また世襲していく日本のお寺の住職の観念そのもの、つまり住職とその家族が何不自由なく食っていくための方便ではないのか?と言ったら言い過ぎであろうか。
つまり、お寺も葬儀ビジネスや墓地ビジネスに関わる方も、檀家も輪廻を否定していることになる。
輪廻を否定すれば、因縁や業も怪しくなってくる。
それにしても、これだけ書籍やインターネットなどで、パーリ語やサンスクリット語から直接日本語に訳された文献に各個人があたれる時代に、日本の仏教、特にお寺が今後も存続していけるのであろうか?
もちろん、僧籍にある者も飯は食っていかなければならないのだし、貴重な国や地域の財産である建造物や仏教美術品を維持・再建して後世に伝えるという役割もあるのだろう。
ましてや、妻帯し家族をもつほとんどの日本の僧籍にある方々は、葬儀ビジネスや不動産業、そして管理会社業などを営み家族を養いながら、その各業界の人々をも食わしていかなければいけないのだから激務で多忙を極め、いつ修行する時間がとれるのだろうか?
まさにこれこそが、ブッダが戒めたことである。
熱心な檀家衆の一番の関心事がお寺の跡取り問題であったり、本堂の改修で一軒当たりいくらの寄付の割り当てがくるのかと戦々恐々するのだから、信者のほうもブッダに帰依した仏教の信者といえるのであろうか?
“利己他力本願ここに極めり”といったところか・・・。
近年、経済発展が著しい中国の不動産業者や葬儀ビジネス会社の日本視察勉強会が頻繁に行われている。世界で最も先にハイパー高齢化社会をむかえ、最も卓越した巧妙な葬式・墓地ビジネスを勉強して広大な中国大陸に取り入れようと画策しているようである。
当の中国も、長年の一人っ子政策の影響で、人為的な高齢化社会がすぐそこまできている。
民族・一族・家族という結びつきが日本以上に強固で面子を重んじるお国柄を考えれば、大きく発展することは間違いないであろうビジネスである。
このような、日本独自の仏教ビジネスモデルが輸出されることは、いずれ歴史上の恥になるであろう。
つづく
←仏教ブログランキング
それが仏教だとしても、ブッダの教えであるとは言いがたい状況である。それでも、各宗旨宗派の超進化をとげ飛躍した教えじたいで救われる人はそれはそれでいいのだと考える。
どの宗教も、お国柄や気候・風土、地理的条件や土着の民間信仰などの影響をうけながらその土地に根付いていく。
キリスト教の側からみれば、米国(連合軍)が占領しあの手この手で試みて、憲法や法改正までしたのにイエスの教えが根付かない脅威の国、日本と言われているらしい。
最近ではこの反省に立ち、キリスト協会でも一回忌や五回忌の法要にあたるものを取り入れている所もある。
いつの頃からかはさだかではないが、日本人の先祖崇拝の素地はいたって強固である。
先祖が、父や祖父、祖祖父としてそのままあり、自分達一族を見守っていてくれる。だから葬儀や墓参り、法要をおろそかにはできないし、良い事でも悪い事でも重要なことがあったときには墓参りをして墓前に手を合わせるという行為に繋がる。
先祖が非常に大きく有益な土地や既得ビジネスモデルを遺産として残してくれたおかげで、我が一族は申し訳ないぐらい金には困らず、悠々自適の人生を送っている。
御先祖様の誰が欠けても、私という存在はこの世に存在できない。自分や家族、一族が幸せであるのは御先祖様のおかげです、というのなら非常に分りやすい。
これってまさしく、お寺に生まれて世襲制のために和尚になり、妻帯して子どもをもうけ、また世襲していく日本のお寺の住職の観念そのもの、つまり住職とその家族が何不自由なく食っていくための方便ではないのか?と言ったら言い過ぎであろうか。
つまり、お寺も葬儀ビジネスや墓地ビジネスに関わる方も、檀家も輪廻を否定していることになる。
輪廻を否定すれば、因縁や業も怪しくなってくる。
それにしても、これだけ書籍やインターネットなどで、パーリ語やサンスクリット語から直接日本語に訳された文献に各個人があたれる時代に、日本の仏教、特にお寺が今後も存続していけるのであろうか?
もちろん、僧籍にある者も飯は食っていかなければならないのだし、貴重な国や地域の財産である建造物や仏教美術品を維持・再建して後世に伝えるという役割もあるのだろう。
ましてや、妻帯し家族をもつほとんどの日本の僧籍にある方々は、葬儀ビジネスや不動産業、そして管理会社業などを営み家族を養いながら、その各業界の人々をも食わしていかなければいけないのだから激務で多忙を極め、いつ修行する時間がとれるのだろうか?
まさにこれこそが、ブッダが戒めたことである。
熱心な檀家衆の一番の関心事がお寺の跡取り問題であったり、本堂の改修で一軒当たりいくらの寄付の割り当てがくるのかと戦々恐々するのだから、信者のほうもブッダに帰依した仏教の信者といえるのであろうか?
“利己他力本願ここに極めり”といったところか・・・。
近年、経済発展が著しい中国の不動産業者や葬儀ビジネス会社の日本視察勉強会が頻繁に行われている。世界で最も先にハイパー高齢化社会をむかえ、最も卓越した巧妙な葬式・墓地ビジネスを勉強して広大な中国大陸に取り入れようと画策しているようである。
当の中国も、長年の一人っ子政策の影響で、人為的な高齢化社会がすぐそこまできている。
民族・一族・家族という結びつきが日本以上に強固で面子を重んじるお国柄を考えれば、大きく発展することは間違いないであろうビジネスである。
このような、日本独自の仏教ビジネスモデルが輸出されることは、いずれ歴史上の恥になるであろう。
つづく
2008-06-10
毒舌・仏教入門
![]() | 毒舌・仏教入門 (集英社文庫) (1993/03) 今 東光 この本の詳細を見る |
昭和50年8月21日から5日間、東南寺で行なわれた戸津説法を収めた貴重な良書だと思う。
今東光(こん・とうこう)法名春聴は、天台宗の大僧正で直木賞作家、そして参議院議員まで勤めた人物である。川端康成、松本清張、瀬戸内寂聴などとも親交が深い方であった。
豪快にして緻密、毒舌をもって慈悲の心を示す。そんな人であったのであろう。時代の要請であったのか?そんな事には関係なくいつの時代にあっても、頭角を現す丹力をもっていたのかもしれない。どちらにしても、このような“人物”は、日本の大乗の素地からしか生まれ得なかったのだと思う。
気骨を持ちモノを言う、理不尽なものには一喝を浴びせ切り捨てる。なのにその強引ともいえるキャラクターで人々を引き付ける。
彼のような政治家はいる。
彼のような僧侶はいる。
彼のような作家はいる。
しかし、それを一人でやってのけるマルチぶりは尋常ではない。
小泉さんとダライラマと北野武とハマコーの要素をすべからく持ち合わせていたような人物である、と書いたら嘘のように聞こえるが、これが「毒舌・仏教入門」を読み終えた私の素直な感想である。
清々しい薫風を今も放ち続けているのである。
2008-06-05
ポジティブな名言集に真理を見出す
サブカル仏教
この名言集には、非常に興味深い点をいくつか見出すことができる。
世界の偉人達は、ある分野で特筆すべき人類史に名を残す功績を残した人々である。
そこに至る過程で、あるいは自分の人生をふりかえり導き出された名言には、ある種の共通点を感じる。
彼らもまた、“道の人”なのである。
ポジティブな名言集
「目には目を」では、世界が盲目になるだけだ。
弱い者ほど、相手を許すことができない。許すということは、強さの証だ。 ・・・ガンジー
忙しすぎて、微笑む暇も 愛を与えたり受け止めたりする暇もない。
そういう生活になっていませんか?・・・マザー・テレサ
私は、ガンジーが晩年暮らし、現在は当時そのままの状態で保存され、彼が掲げた「非暴力主義」運動、そして近代印度建国の父、ガンジー記念館を訪れたことがある。
また、マザーテレサの家にも行ったことがある。(詳しくはコチラ)
どちらも、世界に名がとどろくほどの御方の拠点であるにもかかわらず、見事なまでに極限まで削ぎ落とされたシンプルライフの中で、その偉業を達成されていた。
そのガンジーが、恨みに恨みをもって対処するならば、無間地獄の輪廻に陥り、心安らぐ事は無いと言っており、マザー・テレサが説く“愛”は、若いカップルが燃え盛るような恋愛において渇望するような愛ではなく、見返りを求めない愛、つまり慈悲の心を説いている。
時代も性別も宗教的背景も違う両偉人が残した名言は、やはりブッタの教えに通じている、と考えるのは私の早合点であろうか。
ネガティブな名言集
こちらは、ネガティブな名言集である。
偉人と称せられる人々も、おおいに悩ましい現実を憂いている。であるのだから、凡夫である我々は当然失望や絶望感にさいなまれるのが当然というべきか・・・。
その現象は、やはり自己の心の中の働きによって起こるものである。
ブッタの説く、“心の修養”こそが大切なのだと気付かされる。無明からくる、虚栄心、猜疑心、恐怖感、利己愛、そのようなモノが人々を駆り立てる。
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この名言集には、非常に興味深い点をいくつか見出すことができる。
世界の偉人達は、ある分野で特筆すべき人類史に名を残す功績を残した人々である。
そこに至る過程で、あるいは自分の人生をふりかえり導き出された名言には、ある種の共通点を感じる。
彼らもまた、“道の人”なのである。
ポジティブな名言集
「目には目を」では、世界が盲目になるだけだ。
弱い者ほど、相手を許すことができない。許すということは、強さの証だ。 ・・・ガンジー
忙しすぎて、微笑む暇も 愛を与えたり受け止めたりする暇もない。
そういう生活になっていませんか?・・・マザー・テレサ
私は、ガンジーが晩年暮らし、現在は当時そのままの状態で保存され、彼が掲げた「非暴力主義」運動、そして近代印度建国の父、ガンジー記念館を訪れたことがある。
また、マザーテレサの家にも行ったことがある。(詳しくはコチラ)
どちらも、世界に名がとどろくほどの御方の拠点であるにもかかわらず、見事なまでに極限まで削ぎ落とされたシンプルライフの中で、その偉業を達成されていた。
そのガンジーが、恨みに恨みをもって対処するならば、無間地獄の輪廻に陥り、心安らぐ事は無いと言っており、マザー・テレサが説く“愛”は、若いカップルが燃え盛るような恋愛において渇望するような愛ではなく、見返りを求めない愛、つまり慈悲の心を説いている。
時代も性別も宗教的背景も違う両偉人が残した名言は、やはりブッタの教えに通じている、と考えるのは私の早合点であろうか。
ネガティブな名言集
こちらは、ネガティブな名言集である。
偉人と称せられる人々も、おおいに悩ましい現実を憂いている。であるのだから、凡夫である我々は当然失望や絶望感にさいなまれるのが当然というべきか・・・。
その現象は、やはり自己の心の中の働きによって起こるものである。
ブッタの説く、“心の修養”こそが大切なのだと気付かされる。無明からくる、虚栄心、猜疑心、恐怖感、利己愛、そのようなモノが人々を駆り立てる。
2008-06-05
江頭2:50に真理を見出す
サブカル仏教
ふとしたことからYouTubeでこの動画と出遭ってしまった。
彼のことを、バカだ、キモチワルイ、哀れだ!と思う方も多いかもしれない。しかし、彼の真っ直ぐさは半端ではない。貴方は、ここまでバカ正直に泥臭く信じた道を歩いた事がありますか?
少なくとも、私にはできない。ここまで突き抜けてしまうと、既にある領域に達しているのかもしれない。
そう、彼は間違いなく“道の人”である。
江頭2:50 名言・迷言集
1クールのレギュラーよりも、1回の伝説。
これをやったら次回出られなくなるんじゃないか、なんて考えないようにしている。
人間いつ死ぬか分らないから、その時のすべてを出し切りたいんだ。
俺はいつ死ぬか分らないし、見てくれる人だっていつ死ぬか分らない。
視聴者が最後に見た江頭が
手抜きの江頭だったら申し訳ないだろ?
ブッダは、諸行無常のこの自分を取り巻くすべてのモノを甘受し肯定した上で、すべては空なのだから、この一瞬を精一杯生きよと言われています・・・中泰
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ふとしたことからYouTubeでこの動画と出遭ってしまった。
彼のことを、バカだ、キモチワルイ、哀れだ!と思う方も多いかもしれない。しかし、彼の真っ直ぐさは半端ではない。貴方は、ここまでバカ正直に泥臭く信じた道を歩いた事がありますか?
少なくとも、私にはできない。ここまで突き抜けてしまうと、既にある領域に達しているのかもしれない。
そう、彼は間違いなく“道の人”である。
江頭2:50 名言・迷言集
1クールのレギュラーよりも、1回の伝説。
これをやったら次回出られなくなるんじゃないか、なんて考えないようにしている。
人間いつ死ぬか分らないから、その時のすべてを出し切りたいんだ。
俺はいつ死ぬか分らないし、見てくれる人だっていつ死ぬか分らない。
視聴者が最後に見た江頭が
手抜きの江頭だったら申し訳ないだろ?
ブッダは、諸行無常のこの自分を取り巻くすべてのモノを甘受し肯定した上で、すべては空なのだから、この一瞬を精一杯生きよと言われています・・・中泰
2008-06-03
ブータンを知る
第5回 ブータン探検隊に初めて参加してきました。
平成20年6月1日(日)午後1時30分〜午後4時30分 千葉県 新習志野公民館 会議室で行われました。車で行きましたが、公民館をぐるっと回ったところに大きな無料駐車場があり、車で行かれる方にも便利です。北欧の組み立て家具屋さんIKEAのそば、と言ったほうが分りやすいでしょうか。
第1回 仏教講座(全5回) 仏教って何?ということでオモロイ坊主ことチンナワンソ(藤川清弘)和尚が講師として招かれ、とてもリラックスした雰囲気のなかで楽しく過ごせました。
お茶とブータンのお菓子が楽しめて、次回はブータン音楽が聴けるとの事でした。
第1回目ということで、藤川和尚の出家に至ったユニークな?経緯や、その後の泰国内を托鉢行脚修行の話しを興味深く伺い、テーラワーダ仏教(上座部仏教)についての基本的な解説や仏教サンガについての説明、出家式の詳細が語られました。
ブータン探検隊主催者のブータン人の旦那さんと日本人の奥さんが中心になってブータンについて色々話してくれました。特に、日本語が堪能なブータン人から直接ブータンのことや、ブータン人から見た日本についてお話しを伺えたのは、貴重な体験でした。
10名ほどのアットホームな集まりで、和尚の爆笑講義半分、ブータンへの興味本位な質問コーナー半分、と言った感じであっという間の3時間でした。
お近くの方は、参加されてみてはいかがでしょうか・・・中泰
ブータン探検隊 オモロイ坊主を囲む会 「オモロイ坊主を囲む会」Blog
平成20年6月1日(日)午後1時30分〜午後4時30分 千葉県 新習志野公民館 会議室で行われました。車で行きましたが、公民館をぐるっと回ったところに大きな無料駐車場があり、車で行かれる方にも便利です。北欧の組み立て家具屋さんIKEAのそば、と言ったほうが分りやすいでしょうか。
第1回 仏教講座(全5回) 仏教って何?ということでオモロイ坊主ことチンナワンソ(藤川清弘)和尚が講師として招かれ、とてもリラックスした雰囲気のなかで楽しく過ごせました。
お茶とブータンのお菓子が楽しめて、次回はブータン音楽が聴けるとの事でした。
第1回目ということで、藤川和尚の出家に至ったユニークな?経緯や、その後の泰国内を托鉢行脚修行の話しを興味深く伺い、テーラワーダ仏教(上座部仏教)についての基本的な解説や仏教サンガについての説明、出家式の詳細が語られました。
ブータン探検隊主催者のブータン人の旦那さんと日本人の奥さんが中心になってブータンについて色々話してくれました。特に、日本語が堪能なブータン人から直接ブータンのことや、ブータン人から見た日本についてお話しを伺えたのは、貴重な体験でした。
10名ほどのアットホームな集まりで、和尚の爆笑講義半分、ブータンへの興味本位な質問コーナー半分、と言った感じであっという間の3時間でした。
お近くの方は、参加されてみてはいかがでしょうか・・・中泰
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